解説
南洋
「高波」は「夕雲型」の6番艦として建造されました。
昭和17年8月31日に竣工し軍艦旗を掲げた「高波」は、一ヶ月そこそこの訓練期間の後に、大分の佐伯に向かいます。
佐伯から「波上丸」と「加茂丸」の商船2隻を護衛する任務を与えられたのです【注1】。
兵員と共に戦車や大発などを搭載した2隻の目的地は、ラバウル。
8月の初めに米海兵隊が上陸し、なし崩し的に日米陸海軍が激闘を繰り広げることになったガダルカナル島に対する、日本軍の大根拠地です。
この輸送船団は、「沖輸送」の一環を成すものでした。
「沖輸送」とは、9月中旬に行われた川口支隊によるガ島飛行場総攻撃の失敗を受け9月17日に中央で決した第十七軍(沖兵団)への兵力増強に対応する、海軍側の一連の輸送作戦の呼称です。
スマトラを中心に展開する第三十八師団のラバウルへの緊急輸送が目的で、南西方面からの主力の輸送の他、内地や朝鮮からの輸送を含む極めて大規模な輸送でした。
内地や大陸からの兵力は佐伯を経由して行われることとなり、「高波」の守る「波上丸」「加茂丸」の2隻より成る船団は、佐伯発ラバウル輸送の第一回目の船団でした。
9月27日に佐伯を出発した船団は順調な航海を続け、10月7日、あと数時間でラバウルに到着するまでに至りました。
しかしそこで突然「波上丸」が被雷したのです。
米潜水艦「スカルピン(Sculpin SS-191)」の待ち伏せでした。
「波上丸」はみるみる傾斜を増し、やがて沈没してしまいます。
後れをとった「高波」は直ちに爆雷投射を開始、「スカルピン」に損傷を与えることには成功しましたが、撃沈には至りませんでした。
残る「加茂丸」は無事にラバウルに到着させましたが、「高波」にとっては何とも後味の悪い初陣となってしまいます。
航海中の10月1日、「高波」は第二水雷戦隊の第三十一駆逐隊に編入されたことを無電により知らされます。
僚艦は、先に竣工した「長波」「巻波」でした。
両艦とも既にソロモン方面に活動しており、「高波」は10月11日、ラバウルからトラックに引き返したところで僚艦に合同します。
「高波」は第三十一駆逐隊司令・清水大佐が座乗する司令駆逐艦となっていました【注2】。
「高波」はトラックに到着したその日のうちに、直ちに第二艦隊を基幹とする前進部隊の一員としてトラックを出撃することになります。
陸軍は10月中旬を目処にガ島飛行場に対して一大攻勢を仕掛ける計画でした。
前述の第三十八師団に先立つ8月末に第十七軍の序列に加えられ、ラバウルに集結しつつあった第二師団の主力を以てする攻勢でした。
現地の海軍部隊はこの第二師団主力をガ島に揚陸するため、三水戦駆逐艦を中心としたネズミ輸送に加え水上機母艦「日進」を投入、任務達成に全力を傾けていました。
しかし9月下旬の月明期における輸送の失敗が影響し、10月のネズミ輸送では所期の物資兵員の全てを揚陸することはできない状況となります。
そこで、最後の一押しとして10月15日頃を目処とした高速船団による輸送が決せられ、それに向けての準備作戦が立てられたのです。
準備作戦とは即ち、海上輸送の最大の障害であるガ島飛行場の制圧です。
第六戦隊がまず第一陣としてガ島飛行場制圧射撃の任を負って出撃しましたが、11日深夜、増援の阻止を図る米巡洋艦隊とガ島沖で激突、交戦に至り、飛行場砲撃の任務には失敗してしまいます。
「高波」の投錨するトラックでは、この第六戦隊の作戦行動を更に大規模化した作戦が実行に移されようとしていました。
それが戦艦「金剛」「榛名」の第三戦隊をして行うガ島飛行場砲撃作戦でした。
「高波」率いる三十一駆は、ガ島沖に突入する第三戦隊に随伴することになります。
当初、三十一駆は第二艦隊本隊と共に行動する予定でしたが、六戦隊の失敗に鑑み三戦隊の護衛を増強することとなり、二水戦旗艦「五十鈴」と共に三戦隊の警戒に当たることとなったのです。
ガ島砲撃
既述の通り、10月11日、「高波」たちを含む前進部隊はトラックを発します。
13日、ガ島北方の海面に進出した前進部隊から「金剛」「榛名」を基幹とする挺身攻撃隊が分離、二航戦が差し出す零戦の傘の下、ガ島へと舵を切ります。
「高波」たち三十一駆は二水戦旗艦「五十鈴」に直率され、三戦隊からやや離れて行動して警戒に当たることになっていました。
敵哨戒機の網にこそ引っかからなかったものの、ガ島陸上や哨戒機からの通報は、敵空母機動部隊の策動と米艦隊のルンガ沖での待ち伏せを予測させる内容ばかりでした。
13日深夜、挺身攻撃隊は高速でガ島沖へ突入するとサボ島南水道を通過、18ノットに速度を落として射撃体勢に入ります。
予期に反して米艦隊の気配はありませんでしたが、「高波」たち警戒隊は「金剛」「榛名」に先行する形でツラギ側に布陣、敵艦隊の出現を警戒します。
23時36分「金剛」が、続いて「榛名」がガ島飛行場を目標に砲撃を開始。
三式弾、零式弾、一式弾をガ島飛行場めがけて叩き込みます。
その数、合計918発。
ガ島飛行場は火の海になり、現地の米軍は大混乱に陥りました。
ルンガ飛行場から2万メートルの沖合を直進しながら砲撃を続ける日本艦隊に対し、ルンガ方面の陸上砲台が反撃を試みましたが射程が届かず日本艦隊には被害なし。
「高波」たち警戒隊にも、ツラギ方面の陸砲が砲撃を加えてきましたが、これも射程距離が足らず被害はありませんでした。
0時50分頃には米魚雷艇の襲撃もありましたが、これは「高波」の僚艦「長波」が単独で排除することに成功しています。
挺身攻撃隊は射撃を終えると直ちに最大戦速でガ島からの離脱を開始、無事に前進部隊本隊に収容されました。
ガ島砲撃は、大成功のうちに終わったのです。
挺身攻撃隊のガ島飛行場砲撃の成功によって、14日、第二師団主力を載せた高速輸送船団6隻がガ島北方海面から南下を開始します。
高速船団は散発的な空爆を受けましたが大きな被害を受けることなく14日深夜にタサファロングに入泊、揚陸を開始します。
その脇で、外南洋部隊の重巡「鳥海」「衣笠」がガ島飛行場に対し20センチ砲弾を盛んに打ち込み、船団の揚陸を間接的に支援します。
しかし夜が明けると二夜連続の砲撃にも拘わらず、ガ島飛行場から米軍機が発進し、反復攻撃を開始したのです。
船団と護衛の四水戦の駆逐艦は対空砲火を放ちつつ揚陸作業を続けますが、「笹子丸」「九州丸」「吾妻山丸」が被爆沈没してしまいます。
若干の未揚陸物件がありましたが、船団はこれ以上の被害を食い止めるため作業を中断、ショートランドへの後退を始めました。
入泊した船団が制圧したはずのガ島飛行場からの反復攻撃を受けていることを知った連合艦隊は、ガ島北方を遊弋中の前進部隊に対し、ガ島飛行場の砲撃を指示します。
前進部隊の近藤中将は、第五戦隊の「妙高」「摩耶」に二水戦の「五十鈴」と二十四駆、三十一駆をつけてガ島に向かわせました。
「妙高」「摩耶」、そして「高波」たち二水戦は15日深夜にガ島沖に突入すると、ガ島飛行場への砲撃を開始しました。
この際、2隻の重巡の警戒は「五十鈴」と二十四駆が専ら担うことにし、三十一駆は重巡に伍して砲撃を行うことになりました。
「妙高」「摩耶」の20センチ砲による砲撃に合わせ、「高波」率いる三十一駆も12.7センチ砲をガ島飛行場の方角に打ち込んだのです。
三十一駆は3隻合わせて253発を発砲、五戦隊の砲撃と合わせて敵陣に火災の発生を認めると、直ちに増速して北方へ引き揚げます。
10月16日3時30分に前進部隊本隊に収容されると、第二師団の輸送作戦における前進部隊の大きな行動は終わりを告げます。
後はガ島陸軍部隊の総攻撃に呼応すべく、ガ島北方洋上で待機するだけでした。
しかし燃料の逼迫が日本艦隊の行動の自由を徐々に奪っていきます。
さりとてトラックにも燃料の備蓄はなく、連合艦隊は「大和」「陸奥」の重油を油槽船に吐き出し行動中の艦隊に補給するという、苦しい選択を余儀なくされていました。
南太平洋海戦
ガ島に上がった陸軍第二師団は米駆逐艦の砲撃やガ島航空隊の銃爆撃、そしてガ島の自然そのもの苦しめられつつも密林中を機動、ガ島飛行場の占領を目指します。
10月20日が総攻撃予定日のところ、若干の遅れを見せ、24日から総攻撃を開始します。
それに呼応して出現が予測される米機動部隊に備えるべく、近藤中将率いる前進部隊、南雲中将の「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする機動部隊が、ガ島方面へ向けて南下を開始します。
米機動部隊も陸戦の推移と日本機動部隊の策動を偵知し北上、10月26日、遂に日米空母機動部隊同士の激突を見ることになりました。
日本側では南太平洋海戦と名付けられることになるこの海戦では、彼我の空母機動部隊が死闘を繰り広げ、日本側は多数の航空機と搭乗員の喪失、そして「翔鶴」「瑞鳳」などの損傷と引き替えに、「ホーネット(Hornet CV-8)」「エンタープライズ(Enterprise CV-6)」を大破させることに成功します。
この間、指揮下にあった角田少将座乗の空母「隼鷹」を南雲中将に預けた近藤中将は、前進部隊を率いて敵方への進出を続けます。
進出する間、前進部隊はB17による高々度爆撃を受けますが、目標は「高波」たち駆逐艦ではなく戦艦、巡洋艦で、しかも被害はありませんでした。
やがて空母同士の航空戦が収束、敵戦闘機の妨害を受けることなく全幅の活動を開始した艦隊水偵隊からは、漂流中の米空母に関する報告が続きました。
駆逐艦2隻が砲撃処分中との報告も入り、彼我の距離はその発砲に伴う閃光が前進部隊の各艦からも水平線に望めるほどとなっていました。
南雲艦隊のうち前衛部隊を自隊に吸収した近藤中将は、「死んだ」空母の存在を無視、「生きている」米艦の捕捉を目指しました。
「高波」たち二水戦は近藤艦隊の先頭を突き進んでいましたが、近藤中将から空母を砲撃していた米駆逐艦2隻の撃滅を命ぜられます。
漂流中の空母「ホーネット」を砲撃し、日本艦隊の接近を認めて脱出を図った米駆逐艦は、一本煙突のシムス級「マスティン(Mustin DD-413)」と「アンダーソン(Anderson DD-411)」でした。
2隻を追躡する水偵からは吊光投弾が投下され、追撃する「高波」たちの道標となってくれました。
しかし全速で逃亡する2隻を捕捉することは遂にできず、二水戦には近藤中将から合流命令が下ったのです。
近藤艦隊の追撃は不徹底と見なされることもありますが、前述の厳しい燃料事情から艦隊の洋上行動は最早限界で、致し方ないと見るべきでしょう。
これで近藤艦隊、南雲艦隊は共にトラックに帰投することになり、10月30日にトラックに投錨したのです。
振り返れば10月11日から連続19日間の行動となり、南太平洋海戦に至るまでの間の交戦も多く、これだけの多数の艦艇を動員しての戦闘航海は日本海軍としては異例でした。
ですが、究極的な目的であった陸軍第二師団によるガ島飛行場総攻撃は失敗してしまっていました。
ネズミ輸送
第二師団の飛行場総攻撃失敗を受け、11月、大本営は先にラバウルに集結させた第三十八師団を中心とする陸軍兵力のガ島揚陸を決定します。
第十七軍はガ島方面と東部ニューギニアの二つの正面を受け持っており、第三十八師団は東部ニューギニア方面に投入されるべき兵団だったのですが、これで持てる兵力の大半をガ島に送り込むことになったわけです。
その輸送の援護に当たるため、二水戦は支援部隊主力から分離し、ガ島方面に進出することになりました。
11月2日、南太平洋海戦で長距離を走り回った「五十鈴」率いる二水戦は、燃料補給もそこそこにほとんど休息らしい休息もとらず直ちにトラックを出撃、ガ島輸送の根城であるショートランドへ直航します。
11月5日にショートランドに入泊すると、各駆逐艦はタンカーに横付けし、重油をタンク一杯に満たします。
そして11月6日、二水戦は増援部隊に区分され、二水戦司令官田中頼三少将が同部隊の指揮官となります。
増援部隊とはガ島輸送を担当する部隊で、各水雷戦隊が持ち回りで指揮する駆逐艦戦隊のようなものです。
10月末の時点では第一艦隊所属の第三水雷戦隊が指揮を担当していましたが、兵力は一個水雷戦隊の駆逐艦だけでは全く足りず、複数の水戦から抽出された駆逐艦が入り交じっており、連合航空隊ならぬ連合水雷戦隊のような状況を呈していました。
二水戦は8月に始まったガ島攻防戦の緒戦期に増援部隊として活躍していましたが、その頃はまだ三十一駆は編成されておらず、「高波」たち三十一駆にとっては初めての増援部隊入りということになります。
第三十八師団のガ島揚陸の方法については、第十七軍が唱えた小船団による逐次輸送方式を連合艦隊が嫌い、大船団による一括輸送方式に決定します。
輸送船団のガ島入泊の絶対条件としてガ島飛行場の制圧が挙げられますが、ラバウルの海軍航空隊の攻撃では一時的な制圧にしかならず、またガ島にある第十七軍の砲兵力も弾薬不足など諸般の事情で威力に乏しく制圧は不可、結局連合艦隊が艦砲射撃によって制圧するしかないという結論に達したためです。
作戦自体は10月の増援作戦とほぼ同様ですが、10月に比べると南雲中将麾下の第三艦隊の母艦航空戦力が内地に後退、ガ島方面で行動できる空母は「隼鷹」1隻のみとなっており、航空支援の面では著しく弱体化していました。
一方、ガ島に突入する輸送船団は堂々11隻、その船腹には第二百二十九連隊の一個大隊と第二百三十連隊の一個大隊、在ガ島兵員3万の20日分の糧食を搭載することになっていました。
更にガ島の現状を反映するように衛生隊や野戦病院、自動車隊を含む輜重隊が乗り込みます。
しかし輸送船そのものの質は10月船団に比べて著しく劣っており、平均速力17ノット前後、8000トン以上という粒選りの優秀船を集めた10月船団に対し、11月船団は載貨重量こそ平均7000トンでしたが発揮できる速力にばらつきがあり、最も小柄な「ぶりすべん丸」は10ノットしか期待できませんでした。
その為、船団の護衛には非常な困難を伴うことが予想され、艦砲射撃による飛行場の制圧は10月船団の時よりも比重が高くなっていました。
11月6日23時、「高波」たち三十一駆は甲増援隊に加わり、ガ島に向けてショートランドを出撃します。
第三十八師団の戦闘司令所及び第二百二十九連隊の一部を基幹とする部隊を載せた第一次船団(陸軍輸送船9隻)は、第十七軍の方針に従って既にラバウルを発しショートランドへ向かっていました。
当初この船団の護衛を行う予定でいた「高波」たち二水戦ですが、先の大船団方式の決定に従い船団の出発が延期される一方、10月攻勢に失敗して戦線を維持するのにも四苦八苦しているガ島の第十七軍に対して輸送を行う必要にも迫られました。
二水戦以外の増援部隊各艦は10月末からネズミ輸送を繰り返していましたが、二水戦もこれに加わることになったのです。
6日出発の甲増援隊は増援部隊指揮官田中少将の直接指揮ではなく、十五駆司令佐藤寅次郎大佐が率いており、参加兵力は二水戦の十五駆「親潮」「陽炎」「早潮」、三十一駆「高波」「巻波」「長波」、二十一駆「海風」「江風」「涼風」、それと十戦隊所属の十駆「夕雲」「風雲」の計11隻。
各艦は概ね陸兵30名、糧秣150梱を搭載しており、北方航路で7日深夜にガ島着、二水戦の9隻がタサファロングに、十駆の2隻はエスペランスに、それぞれ揚陸する予定でした。
甲増援隊は早朝に早くも哨戒中のB17に捕捉されると、昼頃にガ島カクタス航空隊の攻撃を受けます。
上空にはR方面航空部隊の二式水戦6機と零観4機が直掩としてついており、彼らは甲増援隊を守るべく米攻撃隊の阻止行動に移ります。
しかし果敢に立ち向かった彼らR方面航空部隊は大きな損害を出し、水戦が全滅、零観も1機が失われてしまいました。
この水上機隊の犠牲のお陰で、三十一駆の僚艦「長波」が若干の損傷を受け「高波」も負傷者1名を生じたものの、失われたり引き返したりする駆逐艦はありませんでした。
深夜、ほぼ定刻通りにガ島揚陸地点に滑り込んだ甲増援隊は、直ちに揚陸活動を開始します。
カクタス航空隊は深夜にも拘わらず泊地上空に哨戒機を飛ばし、日本軍の揚陸活動を妨害しようと試みましたが、良好とは言えない天候に隠れて揚陸活動を継続することができました。
この頃頻繁に出没するようになった米魚雷艇もこの日は姿を見せず、「高波」たちタサファロング隊は搭載物件の8割を揚陸することに成功しましたが、舟艇不足と天候に祟られて全ては陸揚げできませんでした。
また、ガ島海岸に兵員物件を揚陸した舟艇は、傷病兵を満載して駆逐艦に戻って来ます。
体力の消耗が著しい彼らを甲板上に引き上げるには相当な時間を要していました。
これはエスペランス隊でも同じ状況でしたが、甲増援隊11隻は陸海軍合計約500名を収容して無事にガ島海岸を離れたのです。
復路は中央航路、ショートランドへの直線ルートでしたがガ島カクタス航空隊の追撃はなく、昼頃に無事にショートランドに到着することができました。
第三次ソロモン海戦
ショートランドからする増援部隊のネズミ輸送は以後も続きますが、「高波」たち三十一駆はそのままショートランドに待機します。
「高波」たちはショートランドに集結した輸送船団11隻を守り11月13日深夜の揚陸を目指し、11月12日に出撃する予定でした。
ショートランドには外南洋部隊の「鳥海」「衣笠」「鈴谷」「摩耶」なども集結しており、緊張感が漲っていました。
11日午後、ショートランドから四水戦が出撃、ガ島へ向かいます。
四水戦は十一戦隊「比叡」「霧島」によるガ島砲撃の露払いをする予定でした。
12日朝、増援部隊指揮官の田中少将は軽巡「五十鈴」を降り、十五駆から借り受けた「早潮」に将旗を掲げます。
いよいよ輸送作戦が開始されようとしていました。
昼頃、まず「江風」が劣速の「ぶりすべん丸」と共にショートランドを後にします。
続く15時半、「早潮」を始めとする10隻の駆逐艦が10隻の輸送船を護衛して出撃。
追って外南洋部隊の主力も出撃する手はずでした。
しかし13日に日付が変わった頃、ガ島沖で異変が報じられます。
ガ島飛行場の砲撃に向かった十一戦隊を基幹とした挺身攻撃隊が米艦隊と遭遇、交戦に至った(第三次ソロモン海戦・第一夜戦)ためガ島飛行場の砲撃ができなかったというのです。
この報告に驚いた連合艦隊は直ちに船団の揚陸予定日の1日繰り延べを命令、これを受けて第八艦隊は輸送船団に対して反転命令を下しました。
船団は13日の昼頃にショートランドに戻りましたが、ショートランドにいた外南洋部隊の重巡部隊はガ島飛行場を砲撃するために出撃しており泊地にはおらず、輸送船団も入泊から4時間もすると再度ショートランドを出撃したのです。
13日深夜、外南洋部隊の「鈴谷」「摩耶」がガ島飛行場の砲撃に成功、それを受けて船団は突入を決しました。
10月船団は三戦隊によるガ島飛行場砲撃が成功したため、翌日の船団への攻撃は散発的なものに終始しました。
今度の船団は、しかし早朝からガ島航空隊の執拗な反復攻撃にさらされることになったのです。
外南洋部隊による飛行場砲撃は成功していましたが、ガ島航空隊の艦爆、雷撃機への被害は局限され、滑走路も使用可能でした。
残った艦爆、雷撃機、更にエスピリッツ・サントからのB17も加わり、輸送船団は終日にわたって八次にも及ぶ空襲を受けました。
「高波」たち護衛駆逐艦は煙幕を展張して船団を覆い隠そうと努力すると共に、対空砲火によって船団を守ろうと試みます。
しかし空襲の度に被害が累増していきました。
「高波」は雷撃機1機を撃墜するなどの戦果を挙げますが、輸送船は11隻中6隻が沈没、「佐渡丸」が大破して落伍、行動可能な輸送船は4隻しか残らなかったのです。
これだけの被害を受けてもなお、輸送作戦が中止されることはありませんでした。
生き残った4隻を守るのは、田中少将の座乗する「早潮」ら4隻のみで、「高波」を含む残りの駆逐艦は沈没した輸送船から投げ出された陸兵や船員たちの救難に当たっていました。
「高波」たちは日没前に救難作業を中止し、船団を追及します。
しかし追及してきた駆逐艦はどの艦も助け上げた遭難者を大勢乗せていました。
三十一駆に限っても「巻波」が1020名、「長波」が570名もの遭難者を救助したと記録されており、「高波」の救助者数は記録に残っていませんが、恐らくあの状況で救難作業を行わないわけにもいかなかったはずでしょうから、それ相応の数の遭難者を救助していたものと推定されます。
1000名も救助していた状態では戦闘など思いもよらず、最大戦速の発揮も難しい状況だったと推察されます。
しかも船団の目的地であるガ島沖には、哨戒機より米艦隊の出動が偵知されていたのです。
このままガ島沖に進入すれば、残った4隻の輸送船すら全滅する可能性が高いと判断せざるを得ません。
増援部隊指揮官の田中少将は、ガ島飛行場を砲撃すべくガ島北方から突入してくる近藤中将の前進部隊に続行する道を選び、近藤中将側もそれを命じてきました。
近藤中将の前進部隊は、船団の揚陸作業の安全を確保すべく再度ガ島飛行場を砲撃する目的で、十一戦隊「霧島」と重巡「愛宕」「高雄」を基幹とする艦隊でした。
対する米側は、戦艦「ワシントン(Washington BB-56)」「サウスダコタ(South Dakota BB-57)」を基幹とする部隊をガ島沖に待ち伏せさせていました。
この2隻の主力艦は空母「エンタープライズ」の護衛部隊から引き剥がしたもので、米側の必死の防戦ぶりが窺い知れます。
サボ島を挟んで接近した両艦隊は遂に激突。
ガ島を指呼の間に臨む位置までたどり着いた「高波」たち増援部隊の目と鼻の先で、近藤中将の前進部隊とリー少将の米戦艦部隊との間に激しい砲雷撃戦が展開されたのです。
田中少将は指揮下の駆逐艦から戦闘に耐えうるであろう十五駆の「親潮」「陽炎」のみを海戦に加え、「高波」たちは船団の直衛に残され海戦に参加することはできませんでした。
例え参加したとしても先の理由から、まともな戦闘ができたとは到底思えません。
米戦艦部隊の方も近藤艦隊との砲戦で手一杯となり、目標とした輸送船団を攻撃することはできませんでした。
田中少将は海戦が終わった後にガ島に入泊、輸送船に対してタサファロングにのし上げるように命じました。
輸送船には3時を期して引き上げよとの命令が追加されていましたが、本来の入泊予定時刻よりもかなり遅れている上、「霧島」がガ島飛行場を砲撃できなかったため、最早輸送船を生きて連れ戻すことができないと判断したのかも知れません。
増援部隊の駆逐艦は直ちに踵を返しショートランドへ向けガ島沖を脱出しました。
11月船団の悲劇は、ここに一つの絶頂を迎えたと言っても過言ではないでしょう。
残された「広川丸」「山月丸」「山浦丸」「鬼怒川丸」の4隻は、しかし増援部隊指揮官の命に反して容易に擱座しようとはせず、揚陸効率に優れる漂泊状態のまま作業を進めたのです。
夜明けと共に始まった米軍の陸海空からのあらゆる手段を用いた攻撃は熾烈を極め、4隻の輸送船はガ島海岸に擱座して全没を逃れようとしましたが次々と炎上、貴重な物資はその大部分が灰燼と帰してしまいました。
「山月丸」は擱座を潔しとせず3時を期してショートランドに引き上げようと試みましたが、退路を米艦に塞がれ後退を断念、他の3隻と同じように擱座の道を選び、砲爆撃に炎上して果てたのです。
虎の子であった輸送船団を潰滅させられた日本陸海軍は、これ以後のガ島増援に対して全く絶望的な状況に追い込まれたのです。
ルンガ沖夜戦(1) 再起
輸送船団の護衛任務を最悪に近い形で終えた増援部隊は、15日深夜、ショートランドに戻りました。
翌16日、田中少将は「早潮」を降り、「高波」率いる三十一駆の3番艦「長波」を借り上げ、将旗を移揚しました。
二水戦旗艦「五十鈴」に戻ろうにも、田中少将が「早潮」と共にガ島へ向かって出撃した際、外南洋部隊と共に行動して損傷を受けてしまい、修理のためトラックへ戻すことになっており、できない相談でした。
ガ島輸送の前進根拠地であるショートランドも安住の地ではなくなっていました。
B17が爆撃にやって来る回数が以前より頻繁になっていたのです。
脚の長い陸軍戦闘機P38が11月14日にガ島飛行場に展開すると、これを伴って強襲を仕掛けてくることもありました。
18日早朝、11機のB17と12機のP38の戦爆連合攻撃隊により先の11月船団で唯一隻生き残った優秀船「佐渡丸」が攻撃され、同船は横転沈没してしまいます。
戦時日誌には「高波」ら三十一駆などの対空砲火で撃退と記載されていますが、この日、凱歌を上げたのは明らかに米陸軍機の方でした。
海軍のB17恐怖症は海軍高官をして陸軍高官に「処置なし」と言わしめるほどでした。
また米潜の日本軍根拠地に対する締め付けも強化されており、21日、ショートランド泊地北口で特設水上機母艦「山陽丸」(大阪商船)が米潜「スティングレイ(Stingray SS-186)」の雷撃を受け大破、航行不能に陥ってしまいます。
「高波」は救難を命じられ、「山陽丸」をトノレイ湾に曳航して引き入れました。
増援部隊は為す術もなくショートランドに引き籠もったままであったのかと言えば、そうではありません。次の作戦の準備を進めていたのです。
第十七軍の手元にはまだ第五十一師団がありました。
今回の輸送が成功したならば第五十一師団をもガ島に投入、海岸正面からの正攻法による決戦も考えられていたようですが、11月船団が全滅した今となってはもはやそのような展開は望むべくもありませんでした。
連合艦隊は早くもガ島放棄案を軍令部に上申、大本営陸軍部でもガ島戦に望みがない旨の意見が急速に露出し始めます。
このように中央では善後策が練られつつありましたが、人間がその命の火を灯し続けるためには食料が必要です。
ガ島上には食うや食わずの状態の友軍、25000がありました。
また戦争中である以上、米軍の攻勢を防ぐための弾薬も必要です。
海軍はネズミ輸送による糧食、弾薬の輸送を検討し始めました。
しかし月齢はネズミ輸送に適さず、夜間哨戒を頻繁に行いつつある米航空隊の目をかいくぐっての補給にはかなりの犠牲を伴う恐れがありました。
そこで潜水艦によるモグラ輸送を実施する一方、月明期のネズミ輸送を可能とするため、あまり時間をかけずに一定量の物資を確実にガ島上の友軍に送り届ける方法が、陸海軍で検討されます。
その結果登場したのが、ドラム缶輸送でした。
ドラム缶を苛性ソーダで洗浄し、自重で沈んでしまわない程度の空間を残して米などの糧食や弾薬を詰め、駆逐艦の甲板に搭載、運搬します。
ドラム缶を1本のロープで数珠繋ぎにしておくことにより、現場海域で海面に投下しても、舟艇によってロープを陸上に送り届ければ、それを手繰って一気に陸揚げできるという算段でした。
ラバウルでの陸海軍合同実験の際にマニラロープの強度が問題視され、陸軍側から砲兵用輓索の使用が提案されています。
いかにも苦し紛れの方策ですが、他に有力な代替案もないことから直ちに実行に移され、ラバウルから十五駆や二十四駆、次いで十駆によって物資が詰め込まれたドラム缶がネズミ輸送の「巣」であるショートランドに運び込まれました。
増援部隊は、再びガ島への輸送を再開しようとしていたのです。
ルンガ沖夜戦(2) 南下
11月29日深夜、ショートランド泊地を出撃する8隻の駆逐艦がありました。
8隻のうち6隻の甲板上には、所狭しとドラム缶が並べられていました。
第一輸送隊の十五駆(「親潮」「黒潮」「陽炎」)と「巻波」が各240個、第二輸送隊の二十四駆(「江風」「涼風」)が各200個を搭載しています【注3】。
しかしドラム缶を搭載するために代償重量として予備魚雷8本を陸揚げせざるを得ませんでした。
ドラム缶は1本当たり150キロの物資が詰められ自重を除いても240本で36トン、1本2.8トンの九三式魚雷が8本で22.4トンなので、他にも爆雷を半数下ろすなどの措置をとったようです。
ドラム缶を搭載していないのは、増援部隊指揮官田中少将が将旗を掲げる「長波」、そして三十一駆司令清水大佐の座乗する「高波」の2隻。
「長波」は資料がなく不明【注4】ですが、「高波」はショートランドで予備魚雷を下ろしています。
つまり8隻の駆逐艦は発射管に詰めた魚雷8本が全てで、もし会敵したとしても、この頃の日本駆逐艦の特長である次発装填装置を使用しての第二次雷撃はできないことになります。
8隻の目的地は、ガ島。第一輸送隊がタサファロング、第二輸送隊がセギロウ。
揚陸地としては色々な意味で適地ではないのですが、日本軍の陣地や陸上補給路の都合から揚陸地点として常用していた海岸です。
各艦には揚陸用として陸軍小発が搭載され、それを操る陸軍船舶工兵も乗り込んでいました。
航路は北方航路を更に北に逸らした欺瞞航路。
しかし米軍の繰り出す濃密な哨戒網をかいくぐることはできず、翌30日の朝には早くも哨戒機に発見されてしまいます。
空襲を予期せざるを得ない状況でしたが、日没までは田中少将が特に強く要望した直掩の零戦や零観が上空を守り、ガ島方面からの空襲もありませんでした。
となるとガ島沖での敵の待ち伏せが気になります。
ガ島上の友軍からは、ルンガ沖には夜間、米艦艇による哨戒頻度の上昇が報じられていました。
増援部隊司令部ではこの日、会敵の可能性が高いと判断していました。
12時半、田中少将は麾下部隊に対し「今夜會敵ノ算大ナリ會敵時ハ揚陸ニ拘泥スルコトナク敵撃滅ニ努メヨ」(原文ママ)と信号を送ります。
輸送隊は粛々とガ島への行程を消化、ガ島艦爆隊の空襲圏内に入る15時を期して30ノットに増速、日没頃に第二警戒航行序列である単縦陣に整形、揚陸点を目指します。
先頭は「高波」。
月齢はネズミ輸送に最適の0ではなく、21.4。まだ半月に近い輝きがありました。
田中少将はこの月齢を理由に11月30日の輸送に難色を示しましたが、ネズミ輸送を補う意味で先行実施していた潜水艦によるモグラ輸送の成績が不振であったため、第八艦隊から断行を厳命された経緯がありました。
但し当日の天候は曇。
曇天は、揚陸作業にとっては都合がいいのですが、航法にとっては位置が出せない難敵でした。
「高波」の航海長、江田予備中尉(当時)の回想によれば、日没の1時間ほど前に辛うじて天測に成功、この時点で一旦航路の修正に成功します。
日没後の天候は更に悪化、17時半ごろから輸送隊はスコールに包まれてしまいます。
輸送隊は北方航路の目印であり、同時に難所でもあるラモス島の西側2浬を通過する予定でした。
ラモス島は平坦で遠方からの視認が難しい上、周囲を珊瑚礁が取り囲み、不用意に近付きすぎると当然ながら座礁の危険があるのですが、危険を避けるための手がかりである正確な位置、そして海図が江田航海長の手元にはありませんでした。
先頭艦「高波」が航路を誤れば、戦前に起こった米駆逐艦7隻の大量遭難事故のように8隻まとめて座礁破壊してしまう恐れすらあります。
「高波」、なかんづく舵を握る江田航海長の責任は重大でした。
新鋭艦である「高波」は他の駆逐艦に比べればまだ水測兵器に信頼がおけたはずで、江田航海長は装備されている九九式測深儀を全幅活用して水深を随時計測しつつ、高速での進撃を続けます。
やがて音測室からの伝声管が、海底からの反響音の捕捉を報告します。水深は浅くなったり深くなったりと一定しません。
江田航海長はその報告を不安この上なかったと回想していますが、伝声管は突然に水深20メートルを報じました。
「高波」は直ちに面舵一杯、つまりラモス島の反対側へ向けて舵を切り、速力も30ノットから一気に12ノットにまで落としました。
続航する7隻の駆逐艦は陣形を乱すこともなく、この急激な変針に追従します。
危険を感じた江田航海長の独断によって一時的に反転北上した輸送隊は、雨脚が弱まったのもあって再度南下、今度はラモス島西3キロを無事に通過することができました。
しかしこの時点で予定に対して45分の遅延を生じていました。
タサファロング上空には、米軍のものらしい哨戒機が比較的低高度で旋回している様子が視認されます。幸い輸送隊には気付いていないようでした。
「高波」はサボ島を正横に見る地点まで来ると針路を180度とし、更にガ島陸岸と並行する135度の線に乗せました。
そのまま直進すれば、タサファロングの約15キロほど沖に出ることになります。
輸送隊は更に陸岸に接近すると、速度を落とし、泊地に進入を開始します。
計画では「高波」は陸岸から5000メートルから3000メートルの海域を「長波」と共に哨戒する予定でした。
「長波」は輸送隊と共に陸岸の近くに踏み込んでから舵を切っているので、直接哨区につこうとするにしては135度方向に舵を切るのはやや早いと思われます。
あるいは、予定よりもツラギ側を捜索しておくべきだという判断が「高波」首脳部にはあったのかも知れません。
ルンガ沖夜戦を紹介する著書によく書かれる『「高波」は指揮官から先行を命じられた』という逸話については、二水戦戦闘詳報、江田回想ともに該当する記載はなく、もともと予定されていた行動かあるいは「高波」の独断、錯誤だったのではないかと推察します。
警戒艦であり三十一駆司令駆逐艦である「高波」ならば、独断の可能性もあるでしょう。
いずれにせよ、この他艦に比べて早めの変針が「高波」の運命を分けることになったのです。
2108(江田回想では2112。以下括弧内は江田回想)、「高波」、一戦速から原速(12ノット)に減速。
天候は小雨が降ったり止んだりする生憎の空模様。視程約8000。月の出は2205。
2111(2115)、「高波」機関室より報告。原速力に整定。
そして2112(2116)。
「左四五度黒いもの2つ、敵駆逐艦らしい」
二番眼鏡に取り付いていた見張り員の報告が全ての始まりを告げたのです。
ルンガ沖夜戦(3) 戦闘
「高波」の見張り員が捉えたのは正に敵、米艦隊でした。
ルンガ沖で「高波」たちネズミ輸送部隊を待ちかまえていたのは、ライト少将率いる第67任務部隊です。
兵力は重巡「ミネアポリス(Minneapolis CA-36)」「ニューオーリンズ(New Orleans(CA-32)」「ペンサコラ(Pensacola CA-24)」「ノーザンプトン(Northampton CA-26)」、軽巡「ホノルル(Honolulu CL-48)」、駆逐艦「フレッチャー(Fletcher DD-445)」「パーキンス(Perkins DD-377)」「モーリー(Maury DD-401)」「ドレイトン(Drayton DD-366)」「ラムソン(Lamson DD-367)」「ラードナー(Lardner DD-487)」の重巡4、軽巡1、駆逐艦6。ネズミ輸送の駆逐艦8隻に比べれば、身もすくむような大艦隊でした。
ライト艦隊は日本艦隊接近の報を受けて29日夜にエスピリッツ・サントを出撃、レンゴ水道を通過して鉄底海峡に進入すると、20時半以降、ガ島沖を280度で横陣の捜索隊形をとりつつ航行していました。
2106、旗艦「ミネアポリス」の装備するレーダーが284度方向、距離21000メートルに目標を探知します。
ライト艦隊は直ちに320度に一斉回頭、隊形を単縦陣に復し、反航で日本艦隊に迫りました。
ここまでは明らかにライト艦隊に圧倒的優位の展開でした。
ライト少将は、このまま日本艦隊に接近して前衛・後衛の駆逐艦より奇襲雷撃を加え、更に巡洋艦の主砲によってとどめを刺す作戦だったのです。
しかし2116、ライト艦隊の先頭艦「フレッチャー」が距離6400に目標を探知したため、「フレッチャー」艦長コール中佐が雷撃を行なっても良いか旗艦に問い合わせます。
ここでライト艦隊内の情報交換に齟齬が生じました。
「フレッチャー」が探知した目標は恐らく「高波」で、先に「ミネアポリス」が探知した目標は輸送隊の駆逐艦であったと思われます。
ライト少将はコール艦長の要請を遠距離を理由に却下したのです。
つまり、ライト少将は「フレッチャー」がまだ距離のある輸送隊に対して雷撃を加えるための許可を得ようとしたのだと誤解したのです。
コール艦長はライト少将に食い下がり、ようやく雷撃の許可を得て発射したのが2120。
前衛4隻のうち、レーダーで目標を捕捉していた「フレッチャー」「パーキンス」がそれぞれ10本と8本、「ドレイトン」は「高波」をレーダーに探知していませんでしたが「フレッチャー」の示す方向に2本だけ発射します。
「高波」は20本の魚雷に狙われた形となりました。
再び「高波」
「一〇〇度方向ニ敵ラシキ艦影見ユ」
増援部隊に宛てて敵発見の警報を発した「高波」は、なおも観測を続けます。
「高波」見張り員は続いて報告。「敵は7隻。六〇」
2115、「高波」、友隊宛て通報。「敵駆逐艦七隻見ユ」
2116、田中少将、命令。「揚陸止め」続いて「戦闘」
田中少将の「戦闘」の命を待たずとも、「高波」では小倉艦長から左砲雷同時戦の命令が飛び、主砲も発射管も左に旋回、戦闘準備を整えます。
しかし発砲も発射もせず、速度も原速のままゆっくりとした航行を続けていました。
「高波」に座乗する三十一駆司令清水大佐が、味方の輸送任務を慮り、また日本艦隊の状況の優位を信じて発砲を許可しなかったのです。
今この時、ガ島沖に8隻の駆逐艦がやって来た理由は、敵艦隊の撃滅ではなく、ドラム缶に封入した糧食を陸上に送り届けることでした。
敵艦隊に発見されなければ、やり過ごすことができれば、それに越したことはありません。
低速航行であるため白波も立たず、日本艦隊のシルエットはガ島の影に溶け込んでおり、極めて発見されにくい状況であると判断していました。
しかし、2120。事態は急展開を見せます。
米巡洋艦が発砲を開始。
それは星弾でした。
ゆらゆらと緩慢に降下しつつも猛烈な発光を伴う星弾の下に、増援部隊8隻の駆逐艦の全貌が明らかとなってしまったのです。
息を殺して様子を窺っていた「高波」たち増援部隊の将兵が、最早戦闘を避けられなくなったことを知った瞬間でした。
田中少将は命令を発します。
「全軍突撃せよ」
ルンガ沖夜戦(4) 大破
「撃ち方はじめ、最大戦速」
「高波」の小倉艦長は敵の発砲を認めるやいなや、増援部隊指揮官からの命令を待たず、応戦を命じました。
左に向けた主砲が即座に発砲を開始します。
同時に原速から一気に最大戦速へと増速を開始。
しかし「最大戦速急げ2分の1」の命令は即座には機関長に届かなかったかも知れません。艦橋との通信装置の故障が発覚したためです。
艦橋の江田航海長は伝声管や伝令を通じて命令を伝えようとします。
そして早くも「高波」の周辺に水柱が立ち始めます。
「高波」は互いに行き違おうとするライト艦隊と「長波」と第二輸送隊(「江風」「涼風」)の中間にあり、ライト艦隊から集中砲火を受ける状況にありました。
敵巡洋艦の砲撃は初弾から「高波」を挟叉したように見えました。危険な状況です。
一方、「高波」の主砲は距離5000で敵巡洋艦の1番艦を狙い、こちらは第一射から命中弾を得ます。
「ミネアポリス」と思われる艦に命中の閃光。続いて小さな火災。
江間砲術長は続けて急射を指示。
しかし「高波」周辺に林立する水柱と星弾の照明のために照準が妨害され、やむなく敵艦の発砲の閃光を頼りに目標を逐次選定する形式となってしまいました。
ちょうどこの頃、「長波」の発した「全軍突撃せよ」の命令が「高波」艦橋にもたらされます。
小倉艦長は魚雷発射を許可。
「高波」、面舵。
しかしここで再び故障が発生。今度は舵の故障でした。
即座に人力操舵を命じますが、江田航海長にはほとんど舵は効かなかったように感じられています。
押兼水雷長の命令、「高波」魚雷発射。8本。江田回想によれば、2123。
目標は巡洋艦の3番艦。深度は3メートル。
「高波」にとって実戦初の発射でした。
直後、敵弾が「高波」に命中。
被弾したのは発射が終わった直後の一番連管、二番連管でした。
続けて缶室に被弾。
「高波」にとっての致命傷はこの1弾でした。
最大戦速を絞り出すために一杯に焚いている缶からの蒸気が一気に安全弁から吹き出し、「高波」は轟音に包まれます。
「高波」の推進力が失われ、速力が急速に衰え始めてしまいました。
敵弾はなおも次々と「高波」の各所に命中していきます。
一番砲被弾、二番砲被弾、方位盤被弾。方位盤故障のため江間砲術長は砲側照準を令しますが、残った三番砲もまたわずか三斉射を送った後に被弾。沈黙。
「高波」は攻防の全能力を喪失してしまったのです。
応戦開始からわずかに4~5分の間の出来事であったと江田回想は伝えます。
先に「フレッチャー」など米前衛駆逐艦が放ったと思われる魚雷も「高波」を襲いました。
砲撃を受けている最中、2~3本の雷跡が「高波」の艦底を通過していったのです。
どうも「フレッチャー」などはレーダー映像のみで目標を選定して輸送船と思い込んで雷撃した節があり、深度調定を深くし過ぎたのではないかと思われますが、そもそもライト艦隊が出動した理由はショートランドの日本駆逐艦の出動ですから、彼らは日本駆逐艦は輸送船と合流してガ島に来たのだと深読みしたのかも知れません。
とにかくライト艦隊の前衛駆逐艦が放った魚雷は目標を捕らえたものの炸裂することはなく、「高波」は轟沈を免れました。
しかし激しい砲撃は続いており、船体へのダメージと共に、乗組員にも次々と被害が及んでいました。
艦橋から身を乗り出すようにして敵を観測していた小倉艦長は、一番砲被弾の際の破片を受け、重傷。事後の指揮は清水司令が直接執ることになります。
押兼水雷長は「高波」艦橋を襲った不発弾により重傷を負い、第三缶室では主蒸気管が破れ機関員が全滅する被害を受けます。
行動力を失った「高波」ですが、惰性で前進する間に先の面舵が利き始めたのか、あるいは潮流風向のせいなのか、とにかく右に曲がり始め、やがて180度回頭してしまいます。
依然として「高波」への米艦隊の砲撃は続いており、この転舵の結果、「高波」は右舷側からの砲撃に晒されることになってしまったのです。
ルンガ沖夜戦(5) 逆転
2127、順調に砲撃を続けていたライト艦隊は、突如その優勢を失います。
旗艦「ミネアポリス」に魚雷が命中。
「ミネアポリス」への魚雷命中は、9斉射目を放った直後のことでした。
「ミネアポリス」は2本の魚雷を喫し、艦首が脱落。大破。戦闘能力を失います。
2番艦「ニューオーリンズ」は「ミネアポリス」の被雷による急激な減速に驚き、慌てて右(非敵側)に変針したところに左舷前部に魚雷を喫します。
時刻はほぼ同時。
弾薬庫の誘爆により艦橋直前まで船体が切断され、大破。やはり戦闘能力を失いました。
しかしなお2隻の重巡と1隻の軽巡が健在で、大破した「高波」を除く7隻の日本駆逐艦に対する優位は揺るぎませんでしたが、2339、「ペンサコラ」が被雷、大破。
残る「ノーザンプトン」も2348、被雷。
「フレッチャー」ら前衛駆逐艦はライト少将の命令が途絶えたためにそのまま前進を続け、サボ島南水道からサボ島を時計回りにぐるっと回る航路をとって戦場を離脱。
軽巡「ホノルル」は魚雷を恐れるあまり半ば戦闘を放棄して遁走。サボ島の陰に隠れてしまいます。
後衛駆逐艦2隻は「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」と思われる重巡に誤射されて戦闘どころではなく、早々に戦場を離脱してしまっていました。
対する増援部隊は、「高波」以外に損害らしい損害はありませんでした。
タサファロング沖に惹起した夜戦は、圧倒的不利な状況から立ち上がり、米重巡4隻を撃破するという大逆転で終結したのです。
その逆転の端緒となった「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」への命中魚雷は、日米間に時刻のズレがないとすれば、他の日本駆逐艦の魚雷発射とほぼ同時刻か発射のタイミングを求めていた時刻なので、これらの魚雷は2123に「高波」が発射した魚雷以外に有り得ません【注5】。
「高波」は自らの大破の代わりに2隻の重巡を道連れにしたのです。
戦闘終了までの間、「高波」を直撃した砲弾は確認されただけで50発以上。
艦首から艦尾まで、また右舷左舷を問わず、艦の至る所にまんべんなく命中していました。
これだけの被弾にも拘わらず、「高波」は大火災を起こすことはありませんでした。
不発弾が非常に多かったことも火災を生じなかった原因の一つですが、小倉艦長が防火処置に熱心だったことが挙げられます。
小倉艦長は「高波」の前には「満潮」の艦長を務めていました。
「満潮」はバリ島沖海戦で大破しており、その際の被害を教訓に、小倉艦長は「高波」での被害極限を図っていたのです。
可燃物の水線下への格納は言うに及ばず、戦闘前に通路、室内にある程度の放水を済ませておき、甲板上の放水管は常に半開状態にされていました。
防火用水もオスタップやバケツなどで準備されており、これらの事前準備のお陰で大火災に陥ることを免れたのです。
輸送隊ではなかった「高波」が予備魚雷を持っていなかったのも、この火災防止の一環だったとされています。
実際、予備魚雷格納筺に被弾した際に魚雷頭部が誘爆していたら爆沈の可能性もあっただけに、「高波」大破という結果から見るとこの処置は正解だったと言えるでしょう。
ルンガ沖夜戦(6) 曳航か、救助か
タサファロング沖に砲声が止んだ後、行動力を失い漂泊している「高波」では損害の把握と味方艦隊との連絡の回復に向け、生存者の奔走が始まりました。
まずは「高波」が航行不能になっていることを味方艦隊に知らせなければなりません。
後部送信室は砲弾が貫通してメチャメチャになっており送信ができる状況ではなく、被害が軽かった前部受信室でTM軽便通信機を使っての連絡を試みますが、電波の調整が不調で結局連絡がつきませんでした。
上部構造物は非常に大きな損傷を受けており、主砲、発射管は全て被弾、一番連管に至ってはひっくり返っている状況でした。機銃は一部使用が可能だったようです。
機関部は完全に破壊され、航行能力の回復は不可能であることがはっきりしていました。
また船体にもかなりの損傷が認められましたが、至近距離での砲戦だったために水線下への被害は少なく、若干の浸水は認められましたがすぐに沈没する恐れはありません。
小倉艦長は艦橋内で意識を失っており、旗甲板では朗々と吟じながら命を落とす兵の姿が認められました。
「高波」を捨ててガ島に上陸するにしても、負傷者が非常に多く、特に重傷者は舟艇に乗せる必要があります。
しかしあらゆるカッター、陸軍小発は弾片などによって穴だらけになって破壊されており、使用に耐えるものはないように見えました。
江田航海長は比較的損傷の軽い1隻のカッターを何とか修理するよう命じる一方、応急資材を使って筏を組み立てさせ始めます。
このような作業を行なっている最中の23時頃、「高波」は接近してくる2隻の小型艦の姿を発見します。
味方らしいという見張りの声に清水司令が「ワレタカナミ」と信号させてみると、果たしてその2隻は「親潮」「黒潮」で、田中少将が「高波」救援のために派遣して来たものでした。
「親潮」「黒潮」側から見た「高波」は一見して「見込み無し」という惨状で、乗組員を収容して艦を放棄するつもりでした。
「黒潮」は「高波」の右舷艦尾側から接近、「親潮」は付近でカッターを下ろすと、自らも「高波」の左舷艦尾側から横付けしようと近寄ってきました。
「黒潮」に便乗していた陸軍士官は、「高波」に横付けを試みた際に「高波」の甲板から「曳航か、救助か」と叫び問いかけてきた兵の姿を鮮明に記憶しています。
「高波」からはダビットが突き出したままとなっており、横付けの邪魔となっていました。
そのため「黒潮」は別の角度からの横付けを試みようと、一度「高波」を離れます。
救援が来たことを知った「高波」側では、ダビットに吊したままとなっていたカッターや小発を放棄し、負傷者を前甲板に集め始めたりしていました。
「親潮」の横付け作業はうまく運びそうでした。
しかし2321頃、突然、敵艦の接近を知らせる叫び声があがります。
北東方向に艦影。
恐らく駆逐艦、ひょっとすると巡洋艦かも知れません。
「親潮」「黒潮」は複数の艦影を発見、状況が急激に悪化したことを悟ります。
「親潮」「黒潮」は直ちに「高波」を離れ、西方へ、ショートランドの方角へと退避を始めます。
「高波」では、清水司令が敵艦の接近を知ると、拿捕を恐れて主排水弁の解放を命じました。「高波」を自沈させるのです。
命令は直ちに実行され、「高波」沈没まで約20分と判断されました。
重要書類の廃棄も行なわれます。
問題は、負傷者の処遇でした。
先ほどの横付け作業の際、何とか使い物になりそうなところまで応急修理を施したカッターも捨ててしまっていたのです。
筏作業は間に合いそうになく、自沈を始めた今となっては負傷者と言えどガ島まで自力で泳ぐしかありません。
接近が報じられた米駆逐艦はなぜか反転し闇の中に消えてしまいましたが、その代わり今度はより大型の艦影が近付いてきました。
その艦影は「高波」にどんどん接近し、1キロもないところをすれ違って行きます。
「高波」乗組員は甲板に伏せ、攻撃に備えました。
江田航海長は機銃による応戦を企図しましたが、清水司令は無用の刺激を与えるなとこれを抑えます。
「高波」のすぐ近くを漂っていく艦影は、艦尾を深く沈め、夥しい白煙を吹き上げていました。まだ消火作業中のようでした。
彼女に戦闘の意志はうかがえません。
状況からすると、それは「ペンサコラ」のようです。
その姿もやがて東の闇の中へ溶け込んでいきました。
「高波」に残された時間はあと僅かでした。
2330、「高波」は急激に左舷への傾斜を深めます。
総員退去。
2335、「高波」は横倒しになります。
期せずして「高波万歳」の声が周囲の海面より上がりましたが、ちょうどその時、「高波」三番砲艦底付近で爆発が起こります。
更に「高波」の艦影が水面下に没した直後、今度は先ほどを遥かに凌ぐ大爆発が起こりました【注6】。
この爆発によって付近の海面にあった漂流者の多くが海に飲まれてしまい、生き残った乗組員は9キロほど離れたガ島を目指して力泳を始めたのです。
この日、一時的な配乗者を含めて244名を数えた乗員のうち、当時確認された生存者は僅かに33名を数えるのみでした。
戦死、行方不明者は清水司令、小倉艦長を含む211名。
そして「高波」は竣工以来、92日の命でした。
「高波」沈没後に竣工したものも含め、「夕雲型」19隻中最も短いものとなりました。
【注1】
第一船団の護衛艦は、「戦時輸送船団史」「商船が語る太平洋戦争」など大部分の資料には「高波」1隻となっていますが、もともとは「高波」と共に「第四十六号哨戒艇(元・駆逐艦「夕顔」)」も予定されていました。
「第四十六号哨戒艇」行動記録はこの時期の記載は大雑把に過ぎ、全行程に護衛に参加していたか、あるいは一部か、もしくは全く不参加なのか、継続調査事項としておきます。
またラバウルに安着した「加茂丸」は「賀茂丸」とする資料(「商船が語る太平洋戦争」)もあり、どちらが正しい船名であるか判断がついていません。
複数の一次資料が「加茂丸」としているのためこちらが正だと思うのですが誤記もあり得るため、これも継続調査事項としておきます。
2008.01.20追記
「第四十六号哨戒艇」は護衛に参加していたようです。
呉鎮長官より、第四十六号哨戒艇は豊後水道外方100浬付近まで船団を護衛するよう命令が出ています。
【注2】
清水大佐は、第三十一駆逐隊が編成された昭和17年8月31日付で同司令に発令されています。
そもそも清水司令が着任した日付も不明なのですが、仮に同日付で着任していたとして、「高波」は10月1日付で同隊に編入、同時に司令駆逐艦に指定されますが同日は「長波」「巻波」とは離れた洋上を航海中で、清水司令が移乗することはできません。
従って実際に清水司令が「高波」を司令駆逐艦としたのは10月11日のトラックでのことではないかと推定しています。
戦時日誌を丹念に眺めれば解決しそうな気がしますので、継続調査事項としておきます。
いろいろな点で調査が至らずに済みません。
2008.01.20追記
上記の件に関し、清水大佐は内地より「高波」に乗艦していたものと推察されます。
10月1日の「高波」三十一駆編入以後、第一船団の指揮を執っています。
【注3】
ドラム缶輸送におけるドラム缶搭載数は、異説が多数存在しています。
通説では1隻当たり240本(中型駆逐艦は200本)とされていますが、一部証言では1隻当たり80本とするものもあります。
しかしながら第二水雷戦隊戦闘詳報等より判断するに、240本説が妥当でしょう。
また重量面からしてもドラム缶80本では九三式魚雷8本の重量に届かないという事実もあります。
但し総数は単純な合計ではないようで、第八艦隊が発した1098本(糧秣のみ)の他に医薬品入りドラム缶若干とする電報と、増援部隊参謀の発した240本×3プラス200本×2プラス140本の合計1260本とする電報とが併存しています。
現場に近いのは後者ですが、端数を丸めている可能性も十分考えられますので正確な数は断定できません。
搭載の仕方は写真が現存しないので何とも言えませんが、船首楼甲板には搭載しなかったと思われます。
ハンドレールに固縛していたと言われています。
また、発射の邪魔になるので発射管の横にだけはドラム缶を並べていなかったという証言もあります。
【注4】
「高波」が予備魚雷を下ろしていたことは江田証言で明らかですが、「長波」については詳らかではありません。
第二水雷戦隊戦時日誌にはショートランド出撃前の28日、三十一駆が予備魚雷を陸揚げした旨の記載がありますが、厳密に言えばこの時の「長波」は三十一駆ではなく二水戦旗艦扱いですので、この記載に含まれているとも含まれていないとも断じかねます。
【注5】
なにぶん混乱した戦場での記録であるため疑問の余地がないわけではないのですが、本稿では「高波」の戦果と記しておきます。
特に二水戦戦闘詳報では「ミネアポリス」と思われる米巡の被雷時刻が2127ではなく2137とされており、日米の時刻の整合性をとるのが難しい状況です。
【注6】
「高波」生存者は、先の爆発の原因は敵艦の魚雷、後の爆発は爆雷庫内の爆雷の誘爆と分析しています。
雷跡の目撃証言もありました。
しかし当時の米駆逐艦は、味方巡洋艦の救援作業に忙しく、対敵行動を行なっている艦はなく魚雷命中は誤認と思われます。
略歴 | |
---|---|
昭和16年 5月29日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和17年 1月20日 | 命名 |
昭和17年 3月16日 | 進水 |
昭和17年 8月31日 | 浦賀船渠にて竣工 警備駆逐艦に指定 (横須賀鎮守府部隊/海面防備部隊・東京湾方面部隊) |
昭和17年 9月 9日 | 横須賀発、訓練(9月12日横須賀着) |
昭和17年 9月13日 | 横須賀発、訓練(9月19日(?)横須賀着) |
昭和17年 9月23日 | 横須賀発、訓練(9月23日横須賀着) |
昭和17年 9月25日 | 横須賀発、佐伯回航(佐伯到着日不明) |
昭和17年 9月27日 | 佐伯発、船団護衛任務(沖輸送)(10月7日ラバウル着) (横須賀鎮守府部隊/?) |
昭和17年10月 1日 | 第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊に編入 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/内南洋部隊・一護衛隊) |
昭和17年10月 9日 | ラバウル発、トラック回航(10月10日トラック着) |
昭和17年10月11日 | トラック発 |
昭和17年10月13日 | 第三戦隊「金剛」「榛名」によるにガ島飛行場砲撃作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/前進部隊・挺身攻撃隊) |
昭和17年10月15日 | 第五戦隊「妙高」「摩耶」によるにガ島飛行場砲撃作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/前進部隊) |
昭和17年10月26日 | 南太平洋海戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/前進部隊) |
昭和17年10月31日 | トラック着 |
昭和17年11月 2日 | トラック発、ショートランド回航(11月5日ショートランド着) |
昭和17年11月 6日 | ショートランド発、ガ島輸送に参加(11月7日ガ島着、11月8日ショートランド着) (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/外南洋部隊・増援部隊) |
昭和17年11月12日 | ショートランド発、ガ島船団護衛に従事(11月13日ショートランド着) (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/外南洋部隊・増援部隊) |
昭和17年11月13日 | ショートランド発、ガ島船団護衛に従事 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/外南洋部隊・増援部隊) |
昭和17年11月14日 | 第三次ソロモン海戦・14日昼戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/外南洋部隊・増援部隊) |
昭和17年11月15日 | ショートランド着 |
昭和17年11月18日 | ショートランド泊地にて対空戦闘 |
昭和17年11月20日 | ショートランド泊地にて対空戦闘 |
昭和17年11月21日 | 「山陽丸」救難任務 |
昭和17年11月24日 | ショートランド泊地にて対空戦闘 |
昭和17年11月25日 | ショートランド泊地にて対空戦闘 |
昭和17年11月29日 | ショートランド発、ガ島輸送に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/外南洋部隊・増援部隊) |
昭和17年11月30日 | ルンガ沖夜戦に参加、水上戦闘により沈没 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第三十一駆逐隊/外南洋部隊・増援部隊) |
昭和17年12月24日 | 類別等級表より削除 除籍 |
2007.12.31改訂
2008.01.14改訂
2008.01.20改訂