要目(計画時) | |
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基準排水量 |
1680t 1870t(「浦波」実測値) |
公試排水量 |
1980t 2141t(「浦波」実測値) 2013t(「敷波」実測値) |
全長 | 118.50m |
全幅 | 10.36m |
平均吃水 | 3.20m |
主機械 | 艦本式オールギヤードタービン2基 |
軸数 | 2軸 |
主缶 | ロ号艦本式専焼缶4基 |
機関出力 | 50000馬力 |
速力 | 38ノット |
燃料搭載量 | 475t |
航続距離 | 14ノット-4500浬 |
乗員 | 219名 |
主要兵装 | |
主砲 | 50口径12.7cm連装砲3基 |
魚雷発射管 | 61cm三連装発射管3基 |
機銃 | 12.7mm単装機銃2基 |
爆雷投下軌条 | 2基 |
爆雷投射機 | 片舷用2基 |
基本計画番号 | F43 |
同型艦 | |
総数 | 24隻 |
1型(吹雪型) | 9隻 |
改1型(浦波型) | 1隻 |
2型(綾波型) | 10隻 |
3型(暁型) | 4隻 |
同型艦一覧 | 【1型】: 吹雪、 白雪、 初雪、 深雪、 叢雲、 東雲、 薄雲、 白雲、 磯波 |
【改1型】: 浦波 | |
【2型】: 綾波、 敷波、 朝霧、 夕霧、 天霧、 狭霧、 朧、 曙、 漣、 潮 | |
【3型】: 暁、 響、 雷、 電 |
計画経緯
日本のみならず、世界駆逐艦史上にその名を残す「革命的近代駆逐艦」、それが本型「吹雪型」です。
「吹雪型」は、武装・船体等の仕様の差異から、更に「1型」「改1型」「2型」「3型」の4タイプに分けることが出来ます。
本項は、「2型」及びその先駆けになった「改1型」の詳細について解説をすることにします。
また、本項を含む「1型」「3型」の解説中において、「本型」と記した場合は、各々の項の主役たる「1型」「2型」「3型」をそれぞれ指すものとし、「吹雪型」そのものを対象とする場合は、「吹雪型」あるいは「特型」の名称を用いることにします。
1922年(大正11年)、ワシントン軍縮条約が締結されました。
主力艦の保有数を制限するこの条約により、戦艦の保有数を対米6割に抑え込まれた日本海軍は、米太平洋艦隊の迎撃作戦に抜本的な見直しを迫られることになりました。
そして導き出された解答の一つが、水雷戦隊による敵主力艦へ漸減作戦です。
軍令部は、この襲撃任務を満足することのできる、艦隊型駆逐艦の整備に躍起になりました。
日本の駆逐艦に求められる能力は、この軍令部の要求から察することが出来ます。
それは、決戦場と予想される内南洋まで独力で進出しうる強靭な耐波性と、敵主力艦に対する襲撃を有効ならしめる重雷装でした。
八八艦隊計画案までの駆逐艦の任務は、やはり米主力艦への魚雷襲撃でしたが、その背後には米主力艦とほぼ同等の戦力の日本主力戦艦部隊が控えていました。
万が一、水雷戦隊による襲撃が失敗に終わったとしても、日米主力艦同士の砲戦に致命的な影響が波及することはないのです。
ところが、対米6割に抑え込まれたワシントン条約後では、水雷戦隊による米主力艦への魚雷襲撃が失敗することは、即ち、6割の主力艦で10割の米主力艦を撃滅しなければならないことを意味したのです。
戦力自乗の法則によれば、36対100、日本海軍が猛訓練を積んだとしても、ほとんど勝ち目のない戦力格差がそこに生じることになるのです。
即ち、それまで単なる補助戦力に過ぎなかった駆逐艦戦力が、一躍、主力艦と肩を並べるほど重要な戦力となったのです。
この要求を明確に具現化した初めての駆逐艦が、「吹雪型(特1型)」です。
海軍は引き続き、この「吹雪型(特1型)」の増勢に努めることになります。
なぜなら、第二艦隊に二個の水雷戦隊を配備することこそが、海軍の対米決戦戦術上の理想だったからです。
この辺りは、学研の歴史群像「太平洋戦史シリーズ18号・特型駆逐艦」に掲載された戦前船舶研究会の論文に詳しい事情が解説されています。
簡単にかみ砕くと、以下のようになります。
この第二艦隊は巡洋戦艦或いは巡洋艦を中心に構成される高速艦隊で、戦艦を中心とする第一艦隊と対を成す艦隊です。
この両艦隊の性格の差異は、それぞれに配備される駆逐艦の傾向からも窺い知ることが出来ます。
第一艦隊は、敵主力艦隊と堂々と砲撃戦を交わすための艦隊です。
昼間砲撃戦を主任務とする第一艦隊に配備される水雷戦隊は、味方主力艦隊の直衛艦的意味合いが強く、従って敵は主として味方主力艦を襲撃せんとする敵水雷戦隊でした。
その為、敵駆逐艦を排除する力が重視され、雷撃力よりも砲撃力を求められていました。
一方、第二艦隊は、巡洋艦を中心とする夜戦艦隊でした。
昼間決戦に先立ち、対米6割の主力艦隊を少しでも有利に導くべく、夜襲を敢行して、一隻でも多くの敵主力艦を落伍せしめるのが任務だったのです。
夜襲、しかも敵主力艦を目標とするこの第二艦隊に配備される水雷戦隊は、第一艦隊のそれとは逆に、攻撃戦力としての水雷戦隊でした。
その為、敵主力艦を撃破しうる力が重視され、何はともあれ重雷装を、次いで襲撃行動を妨害する敵駆逐艦を独力で排除するだけの砲撃能力が求められたのです。
「吹雪型(特1型)」は、この第二艦隊の為に生まれてきた、重雷装駆逐艦だったのです。
その第二艦隊には、二個水雷戦隊を配備するのが、戦術上の要求でした。
当時の一個水雷戦隊を構成するのは、駆逐艦16隻。二個水雷戦隊で32隻の重雷装駆逐艦を欲していたのです。
当時最強の重雷装駆逐艦は、61センチ魚雷搭載駆逐艦「睦月型」12隻でした。
しかし2個の水雷戦隊に同等の打撃力を持たせるためには、魚雷の射線が同数であることが重要でした。
「睦月型」は6射線、それに対し「特型」は9射線。
発射管門数から言えば、「睦月型」12隻は、「特型」8隻分に充当する計算になります。
32隻の「睦月型」に相当する戦力を揃えるには、既に予算を獲得している9隻を除いて、あと15隻の「特型」の予算を獲得する必要があったのです。
1927年(昭和2年)、海軍は「特型駆逐艦」15隻分の予算を通過させることに成功しました。
この昭和2年度計画艦には、改良が施される予定になっていました。
この改正の結果、初期に建造された諸艦と艦型に差異を生じ、初期建造艦を「1型」、そして改正型を「2型」と呼んで区別することになります。
特徴
「2型」から改正される予定であったものには、大きく2つのものがあります。
まず第一点は、缶室吸気孔の形状です。
「1型」の諸艦の吸気孔は、煙突脇にある「雁首状」あるいは「煙管状」と呼ばれる形状でした。
この吸気孔は、海面からかなり高い位置に設置されたのですが、「1型」が荒天下に全力航行などを行うと、残念ながら海水の浸入を許すことがあったそうです。
そこでこの点を改良し、「2型」では、一番・二番煙突の基部周囲にお椀状の吸気施設を設けました。
ここから吸い込んだ空気は、二重構造になっている煙突の外筒と内筒の隙間を通って、缶室へ送り込まれるようになっていたのです。
この方式は、海水浸入防止策として極めて有効であっただけでなく、副産物として予熱機能をももたらし、本型の燃費の向上に効果をあげました。
その為、この吸気方式は、以後の駆逐艦へも受け継がれ、日本駆逐艦の標準装備として定着することになったのです。
第二点は、主砲砲架の変更です。
「2型」からは、主砲を高角砲化することが検討されました。
これは、当時の航空勢力の脅威増大への対抗措置です。
本来は、「特型駆逐艦」の要目検討段階において要求されていた「8センチ高角砲」を実現すべきだったのでしょうが、実際に搭載されたのは7.7ミリ機銃がわずかに2門というものでした。
結局、航空戦力をかなり軽視していたことの証左でもあるのですが、1928年(昭和3年)、突然その態度を翻し、海軍は主砲の高角砲化を打ち出したのです。
昭和3年の「軍備制限研究委員会」の答申を受けて決定された方針で、本型の主砲も高角砲化されることになったのです
余談ですが、「高雄型」重巡洋艦の主砲が高角射撃能力を有していたのは有名ですが、これも本型と同じ理由で付与された能力です。
この指示に従って設計されたのが、「B型砲架」と呼ばれる砲架です。
「1型」の「A型砲架」との相違点は以下の通りです。
まずは、その高角射撃能力の付与です。
「A型砲架」が最大仰角40度であったのに対し、新設計の「B型砲架」は75度もの大仰角射撃が可能になりました。
もっとも、元来が平射用の砲だったため、弾の装填には仰角を戻さねばならず、これがネックになって大仰角射撃は非常に不得意でした。
平射時は毎分20発程度の射撃が可能とされていましたが、大仰角射撃時は毎分4発程度と、歴然たる差があり、その不得意さを如実に語っています。
後に日本海軍の標準的な高角砲となった、八九式12.7センチ高角砲の発射速度が、毎分15発前後であったことを考えると、実に非力な対空砲であったと言わざるを得ません。
ちなみに、「A型砲架」の発射速度は、平射時で毎分10発程度とされており、これから比べれば「B型砲架」の進歩が伺えます。
揚弾方式も、「A型砲架」の人力揚弾から機力揚弾へと変更され、これも発射速度の向上に貢献したものと思われます。
また「A型砲架」が2門の砲身を同一砲鞍に搭載した同時俯仰角方式であったのを、「B型砲架」では2門の砲身を別々の砲鞍に搭載し、独立俯仰角方式に改めました。
これら主砲の高角砲化や揚弾機構の刷新、俯仰角機構の変更に伴い、砲室形状も大幅に変更されます。
砲盾の厚さこそ同じ3.2ミリでしたが、砲室そのものはかなり大型化されたのです。
もう一つ、「特型」の大きな特徴である、大型の艦橋構造物ですが、本型では更に様々な射撃指揮装置が装備された為、大型化されました。
「1型」の艦橋は、羅針艦橋上部に射撃指揮所と2メートル測距儀が装備されているだけでした。
これが本型になると、羅針艦橋上部には魚雷戦用の発射発令所が、その上部には射撃指揮所が、更にその背後に方位盤照準装置が追加装備され、トップには2メートル測距儀と、「1型」に比べてかなり高度な指揮装置群が追加されています。
しかしこれらの変更は、確かに戦力的見地からすれば強化されたと言えましたが、その一方で重量が増大することになります。
ただでさえ遊びの少ない設計であった「1型」に、更に重量のかさばる装備を追加していったのです。
結局、これらの変更が、後に本型を含む「特型駆逐艦」そのものの安全性を揺るがす原因になったのです。
この辺りの事情は、次の「3型」にて解説することにします。
さて、これらの改正を加え、「特型駆逐艦」をより新式かつ強力にせんとした海軍ですが、特に「B型砲架」の開発完了までにはかなりの時間が必要でした。
こういった事情から、海軍は新規建造について、翌年(1928年・昭和3年)から開始する方針であったようです。
ところが、その海軍を慌てさせる事態が起きました。
1927年(昭和2年)に開催された、ジュネーヴ海軍軍縮会議です。
ジュネーヴ会議の主要な議題は、補助艦艇保有量の制限だったのです。
交渉の進展状況から、どうも日本に思わしくないと感じた海軍は、急遽「特型駆逐艦」の増産を開始することにしたのです。
これはワシントン軍縮会議の際の戦艦「陸奥」と同様の手法でした。
つまり、会議が結論を出す前に建造に着手しておき、既得権として保有を認めさせようという手段です。
これを受けて、1927年(昭和2年)4月末、「浦波」が起工されます。
「浦波」起工時、もちろん「B型砲架」はまだ完成しておらず、それどころか1928年(昭和3年)末とされた竣工にも間に合わない状況でした。
武装を施さずに完成させたことにすると、戦艦「陸奥」の時のようなゴタゴタを繰り返す可能性がありました。
そこで海軍は、「浦波」の船体自体は改正型である「2型」の設計で通すことにしましたが、主砲については「1型」同様「A型砲架」を装備することにしました。
また、「B型砲架」を持たなかったためか時間的な理由からか、はっきりとした理由は手持ちの資料中には発見できませんでしたが、艦橋構造物も「1型」と同型で、「2型」のような艦橋の大型化は施工されませんでした。
こういった事情から、「浦波」は、「2型」の船体に「1型」の主砲と艦橋構造物を持つことになりました。
従って「浦波」のことを、「1型」以降「2型」以前という意味で、「改1型」と呼ぶことがあります。
しかし結局、ジュネーヴ軍縮会議はまとまらなかったため、日本海軍は予定通り獲得分の予算の執行に着手することが出来ました。
これらの駆逐艦のうち、最後に建造された4隻を除く10隻は、「1型」に対する改正点を盛り込んだ「2型」として建造されたのです。
ちなみに、本型のうち「朧」「曙」「漣」「潮」の4隻を「後期2型」、それ以前の6隻を「前期2型」と、更に細分化する場合もあります。
これは煙突周辺の艤装が、わずかに変更されたことに起因するものです。
こういった外見上の細かい分類が行われてしまうのは、「吹雪型」が、その都度その都度最新鋭の兵器や機関などを取り入れ続けていた証明です。
平時の、いわゆるカタログ・スペックがその艦の戦力価値を決定付ける唯一の物差しである時、こういった方式は有効でした。
特に、物量にとんでもない格差がある米海軍を仮想敵にしている日本海軍の場合、個々の艦の能力は少しでも高い方が望ましいわけで、そういう意味では全く正しい方策でした。
しかし、多少の質よりも数が欲しい戦時にまで、この個艦主義を引きずってしまったのが日本海軍の硬直性だったのです。
このように、竣工後も新技術の完成や用兵上の要求から、様々な改装を受けていくことになります。
その中でも特に重要なものに、魚雷発射管の防盾の装備が挙げられます。
「1型」と「2型」の艦の竣工時、魚雷発射管は従来どおりハダカの状態でした。
主砲が砲塔化された一方で、魚雷発射管の兵員の保護は行われなかったのです。
ところが用兵側からの強い要求で、発射管に砲室のような覆いをつけてみることになりました。
目的は、発射管の兵員を波浪から守るという、主砲砲塔化と同じようなものです。
その他にも、各種の魚雷発射指揮装置等の装備により発射法の高度化が実現したことが、理由として挙げられます。
艦橋に装備されたこれら発射指揮装置から、発射諸元を発射機側に確実に伝達する必要性が高まり、その面からも発射管の密閉化が望まれていたのです。
この提案は、ベニヤ板製の防盾を製作し、「2型」の一艦「敷波」(?)において試してみることになります。
発射公試の結果は良好だったようですが、いざ実装する段階になって、艦本四部が反対の声を上げます。
艦本四部の担当は大まかに言うと船体設計で、彼らは現在以上に上部構造物の重量が増加することに懸念を抱いたのです。
しかし艦本二部(兵器開発担当)が押し切る形で開発が決定します。
押し切ったとは言え、重量増加が駆逐艦そのものの性能低下に繋がるので無視するわけにも行かず、まずはジュラルミン製の防盾を完成させます。
完成した試作品は「敷波」(?)において試験されますが、思わぬ弱点が露呈します。
ジュラルミンは海水の塩分によって腐食され、その程度が「到底実用に耐えない」と評価されるほど酷かったのです。
このため、ジュラルミン製防盾は早くも諦められ、代わって防弾効果も期待した鋼製防盾の開発が決定します。
主砲砲室と決定的に異なる点は、魚雷発射管防盾が本格的に防弾を考慮していた点です。
この為、普通鋼ではなく厚さ3ミリの特殊鋼が採用されることになりました。
生産・装備に当たっては、硬度のある特殊鋼に各メーカー・工廠とも非常に手を焼いたと言う話です。
経歴
「改1型」1隻、「2型」10隻の活躍は、「1型」同様目覚しいものがありました。
新鋭駆逐艦に混じり、艦齢を感じさせない活躍ぶりを発揮しました。
2型のネームシップとなっている「綾波」の、第三次ソロモン海戦における激闘の記録は、今日でも色褪せることがありません。
ですが、残念ながら、本型もまた激戦の中に消耗を強いられ、「潮」を除く全艦が海底で眠りに就くことになってしまいました。
同型艦略歴 | ||
---|---|---|
浦波 | 昭和 2年 4月28日 | 佐世保工廠にて起工 |
昭和 4年 6月30日 | 佐世保工廠にて竣工 | |
昭和19年12月26日 | マニラ湾にて、空襲によって沈没 | |
綾波 | 昭和 3年 1月20日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和 5年 4月30日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和17年11月15日 | 第三次ソロモン海戦にて、水上戦闘によって沈没 | |
敷波 | 昭和 3年 7月 6日 | 舞鶴工作部にて起工 |
昭和 4年12月24日 | 舞鶴工作部にて竣工 | |
昭和19年 9月12日 | 海南島沖にて、米潜の雷撃によって沈没 | |
朝霧 | 昭和 3年12月12日 | 佐世保工廠にて起工 |
昭和 5年 6月30日 | 佐世保工廠にて竣工 | |
昭和17年 8月28日 | サンタイサベル島付近にて、空襲によって沈没 | |
夕霧 | 昭和 4年 4月 1日 | 舞鶴工作部にて起工 |
昭和 5年12月 3日 | 舞鶴工作部にて竣工 | |
昭和18年11月25日 | セント・ジョージ岬沖海戦にて、水上戦闘によって沈没 | |
天霧 | 昭和 3年11月28日 | 石川島重工にて起工 |
昭和 5年11月10日 | 石川島重工にて竣工 | |
昭和19年 4月23日 | マカッサル海峡にて、触雷によって沈没 | |
狭霧 | 昭和 4年 5月28日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和 6年 1月31日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和16年12月24日 | ボルネオ島クチン沖にて、蘭潜の雷撃によって沈没 | |
朧 | 昭和 4年11月29日 | 佐世保工廠にて起工 |
昭和 6年10月31日 | 佐世保工廠にて竣工 | |
昭和17年10月17日 | キスカ島沖にて、空襲によって沈没 | |
曙 | 昭和 4年10月25日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和 6年 7月31日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和19年11月13日 | マニラ湾内にて、空襲によって沈没 | |
漣 | 昭和 5年 2月21日 | 舞鶴工作部にて起工 |
昭和 7年 5月19日 | 舞鶴工作部にて竣工 | |
昭和19年 1月14日 | パラオ諸島沖にて、米潜の雷撃によって沈没 | |
潮 | 昭和 4年12月24日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和 6年11月14日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和20年 9月15日 | 除籍。後に解体 |
1999.08.31改訂
2000.01.10改訂
2007.08.20改訂
2007.11.13改訂