要目(計画時) | ||
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基準排水量 | 2000t | |
公試排水量 | 2500t | |
全長 | 118.5m | |
全幅 | 10.8m | |
平均吃水 | 3.76m | |
主機械 | 艦本式オールギヤードタービン2基 | |
軸数 | 2軸 | |
主缶 | ロ号艦本式専焼缶3基 | |
機関出力 | 52000馬力 | |
速力 | 35ノット | |
燃料搭載量 | 622t | |
航続距離 |
18ノット-5000浬(計画) 18ノット-6000浬(実測) |
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乗員 | 239名 | |
主要兵装 | ||
主砲 | 50口径12.7cm連装砲3基 | |
魚雷発射管 | 61cm四連装発射管2基(次発装填装置付) | |
機銃 | 25mm連装機銃2基 | |
爆雷投射機 | 両舷用1基 | |
爆雷投下台 |
手動式4基 水圧式2基 |
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基本計画番号 | F49 | |
同型艦 | 19隻 | |
同型艦一覧 | 陽炎、 不知火、 夏潮、 早潮、 黒潮、 親潮、 初風、 雪風、 天津風、 時津風、 浦風、 磯風、 浜風、 谷風、 野分、 嵐、 萩風、 舞風、 秋雲 |
計画経緯
本型と、本型の後に建造された「夕雲型」とを併せ、「甲型駆逐艦」と呼びます。
「甲型駆逐艦」は日本海軍を代表する傑作艦隊型駆逐艦です。
1922年(大正11年)に結ばれたワシントン軍縮条約は、それ以後の日本駆逐艦の性格をある一方向へ完全に固定してしまいました。
主力艦の保有数を対米6割に抑え込まれた日本海軍は、それ以前の主力艦同士による堂々たる昼間砲撃決戦という米太平洋艦隊迎撃作戦構想を、完全に諦めざるを得なくなったからです。
主力艦の戦力格差をどれだけ補うか。
主力艦同士が砲撃を交えるまでに、日本の戦力と同じ程度にまで、他の戦力をもって米主力艦隊を漸減しなくてはならなかったのです。
では他の戦力とは何か。
それは、大遠距離を翔破する陸上攻撃機であり、そして補助艦艇でした。
この時点で、日本海軍の補助艦艇は、分不相応な相手を倒さなくてはならない宿命を負ってしまったのだ、とも言えます。
倒すべき相手は、厚い装甲と多数の護衛艦に囲まれた米戦艦。
これを仕留めるために、補助艦艇、なかんずく駆逐艦に要求されたのは、ずば抜けた重雷装であることでした。
ところが、この要求を基にして本型の前に建造された「朝潮型」は、兵装はまずまずだったのですが、航続距離と速力において軍令部の不満を買っていました。
急速に悪化しつつあった対米関係を考えた軍令部は、「朝潮型」の欠点を克服した、「理想的な」艦隊型駆逐艦の整備を要求します。
その結果、計画されたのが本型「陽炎型」です。
特徴
軍令部は「朝潮型」に不足していた航続距離と速力を増大することを求めました。
速力は36ノット以上、航続力は18ノットで5000浬というもので、それでいて船型は「特型」を超えない程度におさめるよう要求したのです。
艦政本部は、この要求をまともに呑むと排水量で2750t、軸馬力60000を要し、全長は120mを超えると試算し、軍令部側に要求を下げるように求めます。
軍令部としても夜間魚雷襲撃という戦術の都合上、視認性を高めてしまう艦体の大型化はまず避け、次に航続距離を優先し、速力については35ノットで妥協することにしました。
このようにして要求は決定され、艦政本部は本型の設計に取りかかります。
船型は従来より抵抗の少ないものを研究、最大速力付近でも巡航速力付近でも抵抗が減るような船型を見つけます。
特徴的なのは艦尾の形状でした。
艦尾の船底部分を平面化と水線部付近にナックルをつけたような形は、水を押さえつける効果を発揮して高速航行時の抵抗減少、即ち同じ馬力でも速力が稼げるという成果に繋がったと言います。
この艦尾形状は、もともと高速航行時に艦尾から湧き上がる白波が暗夜敵に発見され易いので、これを少なくしようという研究から転じて生まれたものだそうです。
この船型の採用により、航続距離問題のクリアが見込めました。
船体に関して「朝潮型」に対する反省はもう一点ありました。
一言で言えば「頑丈すぎた」と言われているのです。
「朝潮型」は、起工直後に「第四艦隊事件」が生起し、そのショックから当時は未熟な技術とされた電気溶接を極力廃し、船体構造を過剰なまでに強固にしていました。
頑丈なのはいいのですが、重いことは戦闘艦艇にとって誉め言葉にはなりません。その分、燃費や機動性能に跳ね返ってくるからです。
それに対し本型は、「吹雪型」以来の日本重雷装駆逐艦の系譜で、重大な失敗とされる「友鶴事件」「第四艦隊事件」に新造時より完全対応した初めての駆逐艦でした。
削るところは削り、「第四艦隊事件」の反動で厳しく制限を課された電気溶接もできるだけ利用して、重量を軽くしたのです。
こうして「陽炎型」の設計はまとまりました。
船体構造はほぼ理想的になり、復原性能・凌波性能・船体強度のいずれを取っても申し分のない艦型に仕上がったのです。
ただ、設計者の牧野茂氏は、「陽炎型」のタービンを左右軸で別々の部屋に据えて抗堪性を与えようとしたが、造機関係者の説得に失敗して成せなかったことが残念である、と回顧しています。
また「朝潮型」で試験した電源の交流化については、結果が出ていないためか、本型では直流のままだったようです。
兵装面において特筆すべき点は、新造時より九三式酸素魚雷を搭載した初めてのクラスであった点でしょう。
主砲はC型砲塔を採用しており、これは最大仰角55度の平射砲でした。
これらの事実は、「陽炎型」が軍令部の望んだ「理想的な」艦隊型駆逐艦であったことを示しています。
それは即ち、主として対艦戦闘を考慮した駆逐艦であったということです。
ちなみに、ほぼ同時期の米駆逐艦シムス級やベンソン級の砲兵装は、5インチ両用砲5門でした。
「陽炎型」などの日本水雷戦隊は夜戦において敵主力艦に肉薄する際、妨害に出るであろう敵駆逐艦を排除する必要がありました。
想定される敵駆逐艦よりも優勢な砲兵装を備えたことは、敵陣突破の必須条件だったのです。
ところが本型は、完成後に問題を生じています。
問題は、あれだけ注意を払った速力で発生しました。
本型の初期の艦が完成し実際に運転してみたところ、計画速力である35ノットを達成できなかったのです。
初期型艦艇10隻の平均は約34.6ノットだったそうです。
軍令部の要求は前述のとおり、「百歩譲って35ノット」であり、これ以上の速力性能の低下は受忍できるところではありませんでした。
本型は「朝潮型」に比べて重量が増加しており、速力の低下をきらって、蒸気条件や船型、プロペラ(スクリュー)形状の改善などの対処を施してありました。
この問題については造機部門の研究が解決策を導きだし、最終的に5つの改善型プロペラが用意されました。
プロペラ径を増加したり、翼断面を変えてみたこれらの改善型プロペラの実験の結果、平均で35.4ノットの速力を得ることに成功し、この改善型プロペラが採用されることになります。
ちなみにその他の改善型では翼幅を若干大きくしたりしたタイプが好成績を示し、36ノットをマークしたようです。
経歴
本型は、1937年(昭和12年)の第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)によってまず15隻、次の1939年(昭和14年)の第四次海軍軍備補充計画(マル4計画)でも4隻、合計19隻が建造されました。
マル3計画では18隻分の予算が組まれていますが、この内3隻分は戦艦「大和」建造費秘匿の為のダミーで、実際には建造されていません。
また、マル4計画で建造された「秋雲」は、従来「夕雲型」に分類されていましたが、1994年に「陽炎型」とする説が発表されています。(「世界の艦船」479号)
ここではその説に従って「秋雲」を「陽炎型」の最終艦とします。
本型は、19隻全てが開戦前に竣工し、最新鋭艦隊型駆逐艦として太平洋戦争に参戦しました。
しかし太平洋戦争は、戦前に軍令部が考えていたような艦隊決戦は生起せず、もっぱら航空機を主軸とする戦闘ばかりが行われました。
もともと対空戦闘など考慮した造りではない本型は、航空機を相手に各方面で苦戦を強いられます。
更にはガダルカナルを始めとする、島嶼部への物資・兵員輸送作戦にまで駆り出される始末でした。
確かに、ソロモン諸島などで発生した水上戦闘において本型を含む駆逐艦隊が魚雷攻撃を行い、連合軍水上戦力に深刻な打撃を与えることに成功した例もありました。
しかし結局は航空兵力に圧倒されてしまい、次第に数を減じていくことになります。
前述の主砲にしても、米駆が振りかざした両用砲が日本機の重大な脅威となり得たのに対し、日本駆が振り上げる平射砲が米機相手に大して役に立たなかったことは、日米の駆逐艦に建造時に与えられた任務と、竣工後の現実との合致・遊離の象徴とも言えます。
結局、敵駆逐艦を圧倒すべく搭載した主砲を降ろしてでも対空火器を増強せざるを得なかったのが、現実だったのです。
また米潜水艦隊の跳梁に対しても、有効な対潜兵装を持たない本型は、あてになる戦力とは言い難いものでした。
その意味では、本型が「第二次大戦に必要とされる能力が欠如した艦である」と言われても、仕方がないのかも知れません。
本型は大戦の全期間にわたって、水雷戦隊の主力として、あるいは機動部隊の直衛として、常に第一線で活躍し続けました。
その結果「陽炎型」19隻中、「雪風」を除く18隻が戦没しました。
しかし、連合艦隊最後の艦隊作戦である「菊水作戦」には、開戦以来の激戦を生き延びた3隻の「陽炎型」が随伴しています。
この事実が、「陽炎型」の基本性能の優秀さを証明していると言えるのではないでしょうか。
同型艦略歴 | ||
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陽炎 | 昭和12年 9月 3日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和14年11月 6日 | 舞鶴工廠にて竣工 | |
昭和18年 5月 8日 | クラ湾にて触雷後、空襲によって沈没 | |
不知火 | 昭和12年 8月30日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和14年12月20日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和19年10月27日 | パナイ島北方にて、空襲によって沈没 | |
夏潮 | 昭和12年12月 9日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和15年 8月21日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和17年 2月 9日 | 2月6日マカッサル島沖にて米潜によって被雷後、曳航中浸水、沈没 | |
早潮 | 昭和13年 6月30日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和15年 8月21日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和17年11月24日 | ラエ沖にて、空襲によって沈没 | |
黒潮 | 昭和12年 8月31日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和15年 1月27日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和18年 5月 8日 | コロンバンガラにて、触雷によって沈没 | |
親潮 | 昭和13年 3月20日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和15年 8月20日 | 舞鶴工廠にて竣工 | |
昭和18年 5月 8日 | コロンバンガラにて触雷後、空襲によって沈没 | |
初風 | 昭和12年12月 3日 | 神戸川崎造船所にて起工 |
昭和15年 2月15日 | 神戸川崎造船所にて竣工 | |
昭和18年11月 2日 | ブーゲンビル島沖海戦にて「妙高」と衝突後、水上戦闘によって沈没 | |
雪風 | 昭和13年 8月 2日 | 佐世保工廠にて起工 |
昭和15年 1月20日 | 佐世保工廠にて竣工 | |
昭和20年10月 5日 | 除籍。後に賠償艦として中華民国に引渡 | |
天津風 | 昭和14年 2月14日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和15年10月26日 | 舞鶴工廠にて竣工 | |
昭和20年 4月10日 | 厦門沖にて、空襲により航行不能(6日)、自沈 | |
時津風 | 昭和14年 4月20日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和15年12月15日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和18年 3月 3日 | クレチン岬沖にて、空襲によって沈没(ビスマルク海海戦) | |
浦風 | 昭和14年 4月11日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和15年12月15日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和19年11月21日 | 台湾海峡にて、米潜の雷撃によって沈没 | |
磯風 | 昭和13年11月25日 | 佐世保工廠にて起工 |
昭和15年11月30日 | 佐世保工廠にて竣工 | |
昭和20年 4月 7日 | 坊の岬沖海戦にて、空襲により航行不能、「雪風」の砲撃によって処分 | |
浜風 | 昭和14年11月20日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和16年 6月30日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和20年 4月 7日 | 坊の岬沖海戦にて、空襲によって沈没 | |
谷風 | 昭和14年10月18日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和16年 4月25日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和19年 6月 9日 | タウイタウイ付近にて、米潜の雷撃によって沈没 | |
野分 | 昭和14年11月 8日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和16年 4月28日 | 舞鶴工廠にて竣工 | |
昭和19年10月25日 | サマール島沖にて、水上戦闘によって沈没 | |
嵐 | 昭和14年 5月 4日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和16年 1月27日 | 舞鶴工廠にて竣工 | |
昭和18年 8月 6日 | ベラ湾海戦にて、水上戦闘によって沈没 | |
萩風 | 昭和14年 5月23日 | 浦賀船渠にて起工 |
昭和16年 3月31日 | 浦賀船渠にて竣工 | |
昭和18年 8月 6日 | ベラ湾海戦にて、水上戦闘によって沈没 | |
舞風 | 昭和15年 4月22日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和16年 7月15日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和19年 2月17日 | トラック島沖にて、水上戦闘によって沈没 | |
秋雲 | 昭和15年 7月 2日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和16年 9月27日 | 藤永田造船所にて竣工 | |
昭和19年 4月11日 | ザンボアンガ付近にて、米潜の雷撃によって沈没 |
1998.01.15改訂
1998.01.28改訂
1998.07.21改訂
2002.10.17改訂
2007.11.13改訂