要目(計画時) | ||
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基準排水量 | 2567t | |
公試排水量 | 3048t | |
全長 | 129.5m | |
全幅 | 11.2m | |
平均吃水 | 4.14m | |
主機械 | 艦本式オールギヤードタービン2基 | |
軸数 | 2軸 | |
主缶 | ロ号艦本式専焼缶3基 | |
機関出力 | 75000馬力 | |
速力 | 39ノット | |
燃料搭載量 | 635t | |
航続距離 | 18ノット-6000浬(計画) | |
乗員 | 267名 | |
主要兵装 | ||
主砲 | 50口径12.7cm連装砲3基 | |
魚雷発射管 | 61cm五連装発射管3基 | |
機銃 |
25mm連装機銃2基 13mm連装機銃1基 |
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爆雷投射機 | 両舷用1基 | |
爆雷投下台 |
手動式4基 水圧式2基 |
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基本計画番号 | F52 | |
同型艦 | 1隻 | |
同型艦一覧 | 島風 |
計画経緯
本型は、「陽炎型」「夕雲型」が「甲型駆逐艦」と、「秋月型」が「乙型駆逐艦」と呼ばれるのに対して、「丙型駆逐艦」と呼ばれました。
軍令部は、米太平洋艦隊との艦隊決戦において、水雷戦隊による襲撃を重視していた為、艦隊型駆逐艦の整備に躍起になっていました。
日本の駆逐艦に求められる最も重要な能力は、この軍令部の要求から察することが出来ます。
それは、重雷装であることでした。
このコンセプトに基づいて、日本海軍は着々と艦隊型駆逐艦を整備して来ました。
まずは「朝潮型」が建造され、続いて「陽炎型」「夕雲型」の「甲型駆逐艦」が完成します。
これら一連の艦隊型駆逐艦は、世界最強の重雷装駆逐艦として完成し、日本海軍の艦隊決戦思想の一翼を担うに足る、極めて優秀な駆逐艦でした。
もちろん海軍は彼女たちの出来に非常に満足し、その性能に絶大な信頼を寄せていました。
しかし、非の打ち所がなかった訳ではありません。
海軍が不満としたのは、兵装でも航続距離でもなく、速力でした。
その結果、海軍は新たな駆逐艦の計画を開始します。
その次期主力艦隊型駆逐艦こそ、本型「島風型」だったのです。
特徴
「島風型」のコンセプトは、「より速く」の一語に尽きます。
艦隊型駆逐艦の決定版とまで言われる、誉れ高い「甲型駆逐艦」の速度は、約35ノットでした。
この35ノットという数字は、決して遅いものではありませんが、さりとて十分満足できる値でもありませんでした。
なぜなら、当時、ロンドン軍縮条約が破棄された為、列強は次々と新型戦艦を建造しており、その新式戦艦たちの速度がおおよそ30ノット前後にも達したからです。
魚雷による襲撃の成功は、いい射点、すなわち当て易い発射位置にたどり着くことが出来るがどうかに、大きな比重がかかっています。
いい射点につく為には、目標となる敵戦艦よりもある程度以上速くなくてはなりません。
日本海軍においては、概ね10ノットの優速が理想とされていたようです。
「島風型」に求められたのは、この高速力だったのです。
軍令部から「島風型」を建造するに当たって、40ノットの高速性が要求されました。
この要求案は軍令部と造機部、造船部の一部の幹部の間で秘密裏に合意されていたようです。
この時点で既に素案が出来上がっており半分出来レースのような形でしたが軍令部案は海軍省に認められ、艦政本部に対して検討が命じられました。
艦政本部はこの要求を満たすために、さまざまな工夫を凝らします。
まず、従来の「甲型駆逐艦」に比べて極めて大出力の機関を搭載します。
蒸気を発生するボイラーも、蒸気を力に変換するタービンも、全くの新型になりました。
この新型ボイラーは圧力40kg/cm^2、蒸気温度400度という条件を満たすもので、本型に採用するに先立ち「陽炎型」の一艦「天津風」に搭載され、性能が確認されました。
新型タービンの方は高温高圧蒸気から少しでも多くのエネルギーを抽出するため従来型タービンの高圧・中圧・低圧の3車室構成をやめ、高圧・第1中圧・第2中圧・低圧の4車室構成のタービンに変更、広工廠機関実験部における陸上試験で不具合を摘出した上で搭載されています。
こうした新機軸導入の結果、75000馬力という大馬力を叩き出すことに成功したのです。
これは基準排水量34700tの戦艦「扶桑」と同等の出力であり、基準排水量64000tの戦艦「大和」(150000馬力)の半分の出力です。
「島風型」の基準排水量2600tと比べれば、装備された機関がどの程度強力であったかを推察することが出来るでしょう。
艦型は「夕雲型」を基本としいていますが、高速化の為にやや変更を加えています。
艦首形状を従来のダブル・カーベチャ・バウから、より高速に適したクリッパー・バウに変更しました。
船体自体も約10m延長し、「秋月型」を除く正統派艦隊型駆逐艦としては、最大型艦となりました。
船体の延長の理由ですが、船体が細長い方が高速を得るには有利なのは確かですが、5連装発射管3基装備という兵装面での要求と機関の大きさが影響を及ぼしているようです。
特に機関面では当初「甲型」までのように機械を1室に収めるつもりであったと言われています。これは後にも説明しますが7連装発射管2基構想と付合します。
しかし大馬力化の影響で機関容積が増大し2室に分ける必要が生じてしまいました。
ですから本艦型が1軸1室方式を採用した理由は、抗堪性を狙ったとされる「秋月型」とは別だったのではないかと思われます。
この結果、「島風型」の一番艦「島風」は、公試運転の際に40.90ノットをマークすることに成功したのです。
しかし「島風」についての文献を見れば必ず載っていますが、額面どおりには受け取れない点があります。
一応触れておきます。
本型の公試運転成績は、全力公試で40.37ノット(75890軸馬力)、過負荷状態で前述の40.90ノット(79240軸馬力)です。
但しこれらの成績は、通常行われる公試状態よりも艦の重量を軽くして行っています。
通常の公試は2/3状態(燃料等消費物件が満載状態の2/3)で行われます。
しかし「島風」の公試は1/2状態で行われたのです。
これは「島風」だけに適用された特例です
その理由は、このようなものらしいです。
公試状態とは、その艦の戦闘状態を想定した状態であり、それは基地を出撃し戦闘海面に到着した段階の状態を指します。
ところが当時の海軍は、前述の2/3状態を公試状態として取り扱うことに対し、疑念を抱き始めていたらしいのです。
日本海軍は、麾下の艦艇の戦闘突入時の状態を、1/2状態ではないかと考え始めていたようなのです。
「島風型」の設計には、この新しい考えが適用されていました。
だからこそ、「島風」の公試運転の状態は、1/2状態なのです。
設計段階から1/2状態を公試状態としていたので、何ら不自然なことではありません。
時々、「『島風』は40ノット艦として建造されたのに、40ノット発揮の見込みがたたないため、公試状態をたばかってドーピングしたのだ」と言う人がいるようですが、その意見はどうも見当違いのようです。
では、従来の2/3状態での「島風」の性能はどうなのでしょうか。
恐らく2/3状態での全力発揮では、39ノット程度だと思われます。
もっとも、これでがっかりする必要はありません。
計画速力39ノットは満足していますし、「甲型」の運用結果から推察するに計画速力を上回るはずです。「島風型」は間違いなく日本最速駆逐艦なのです。
また「島風型」を語る上で外せないのが、その重雷装ぶりです。
本型以前の日本駆逐艦において、最も射線数が多かったのが「吹雪型」の3連装発射管3基9射線です。
「甲型」は次発装填装置をつけているとは言え、4連装2基8射線。
それに比べて「島風型」は5連装3基15射線を装備し、搭載する酸素魚雷の威力とあいまって恐るべき重雷装を誇ったのです。
本型で採用された方式は、とにかく一回の発射でどれだけの射線を確保できるかという命題を突き詰めた結果でしょう。
要求段階では7連装発射管2基14射線という方式まで検討されたようですが、これでは動力が停止した際に人力での旋回が困難であるということで、お流れになったそうです。
「島風型」は次発装填装置こそ装備していませんが、同時に発射できる魚雷数では、日本駆逐艦でこれを上回るものはありませんでした。
日本海軍全体でも、片舷4連装5基20射線(両舷では10基40射線!)の重雷装艦に改装された軽巡「大井」「北上」が上回るのみです。
世界的にも「島風型」の重雷装ぶりは際立っています。
対抗馬として米「グリッドレー」級駆逐艦などの4連装4基16射線というのがありますが、これは片舷に指向できる発射管は2基8射線である上、何と言っても酸素魚雷との威力差がありますので、総合的な雷撃力では「島風型」には遠く及びませんでした。
ちなみに、「『島風型』を重雷装駆逐艦と表現するのは誤り」とする意見もあります。
これは、「甲型」の搭載魚雷本数16本に対し、「島風型」のそれは15本であり、本数に変わりはないという事実から導いた意見でしょう。
ですが、私はやはり「島風型」は重雷装駆逐艦であると考えます。
魚雷という兵器は元来、目標の近距離にまで肉薄して発射する兵器であり、それゆえ発射機会の少ない兵器です。
日本海軍自慢の長射程酸素魚雷は、確かに主力艦の主砲砲戦距離に匹敵する射程を誇ります。
しかしこのような長射程発射を想定しているのは重巡や重雷装艦であり、水雷戦隊を構成する駆逐艦は夜戦においては従来通りできるだけ敵に接近して発射することを想定しています。
「陽炎型」や「夕雲型」が次発装填に失敗した場合、発射本数は1艦あたり8本しか期待できませんが本型は15本を期待でき、必中を期する水雷戦隊にとっては歓迎すべき能力であるわけです。
「重雷装」という言葉の定義をどう採るかによりますが、私は同時発射本数の多い方が重要であると考え、「島風型」を重雷装艦であると捉えています。
その他の兵装については、船体と同様「夕雲型」に準じています。
主砲は最大仰角75度のD型砲塔を採用し、対空戦闘を考慮した形になっています。
当初はE型と仮称される新型砲塔の採用を考えていたようですが、結局D型砲塔に落ち着いています。
また艦橋前部に機銃台を設け、13mm連装機銃(後に25mm連装機銃に換装)を装備していますが、これは「夕雲型」の計画時にはない装備でした。
「島風型」計画時もこの装備はなかったのではないかと推測されますが、戦訓を汲んでの増備だったのでしょう。
経歴
本型は、1939年(昭和14年)の第四次軍備補充計画(マル4計画)で試作艦1隻が計画され、続く1942年(昭和17年)の第五次軍備補充計画(マル5計画)では16隻が計画されました。
このうち試作艦「島風」は建造されたものの、残りのマル5計画艦はミッドウェイ海戦の敗戦によって内容が大幅に書き換えられることになります。
書き換えられた改マル5計画では、「島風型」の建造予定数はマル5計画の16隻から8隻と半減されてしまいます。
更にこの8隻の内容も、試作艦「島風」の同型艦ではなく、主砲の対空発射速度を上げたタイプを考慮していました。
改マル5計画は全面的にミッドウェイ・ショックとも言うべきものでしたが、元来対空戦をあまり考慮していなかった艦隊型駆逐艦の設計にも、その影響が及んでいたのです。
後には、五式高角砲と呼ばれる長砲身12.7センチ高角砲を搭載する可能性も議論されたと言います。
しかし結局、半減された8隻は1隻も起工されることはありませんでした。
史上最強の重雷装駆逐艦「島風型」が水雷戦隊を編成するという夢は、ここに潰えたのです。
海戦の様相が航空戦へと変貌していったことも大きな原因ではありましたが、本型のような高価で複雑な艦は戦時中の量産には不適当であったという一面も見逃すことは出来ません。
本型は前述どおり「島風」だけが竣工しました。
しかしその運命は、重雷装を以って善しとする日本の艦隊型駆逐艦の運命を象徴するがごときものでした。
細かい解説は【個艦編】の「島風」に譲りますが、期待された艦隊決戦は生起せず、航空機と潜水艦が日本海軍にとっての脅威となりました。
これに対し、ある意味では「夕雲型」以上に雷撃戦に特化した形となった本型は、遂に有効な戦力とはなり得なかったのです。
同型艦略歴 | ||
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島風 | 昭和16年 8月 8日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和18年 5月10日 | 舞鶴工廠にて竣工 | |
昭和19年11月11日 | オルモック輸送作戦中、空襲によって沈没 |
1998.01.28改訂
1999.05.10改訂
2000.01.11改訂
2002.09.12改訂
2002.09.30改訂
2007.11.13改訂