解説
天津風は「陽炎型」の一艦ですが、他の同型艦と異なる点を持つことで有名です。
当時、列強が建造しつつある新式戦艦の速度は上がる一方でした。
遅いものでも「大和」の27ノット、速いものだと「ニュージャージー」の33ノットという状況だったのです。
「理想的な」艦隊型駆逐艦として完成されたはずの「陽炎型」ですが、速力は35ノットに過ぎず、これは当時の新型駆逐艦としてはやや遅いものでした。
駆逐艦による雷撃の成功というものは、如何にして命中魚雷を得やすい射点(発射場所)に到達できるかにかかっていました。
その為に必要なのは、何よりも目標に対する優速でした。概ね10ノット以上の優速が求められていたようです。
「陽炎型」の35ノットという速度は、敵主力艦を襲撃するに明らかに不足であり、次期主力駆逐艦にはそれ以上の高速性能が不可欠になりました。
しかし速度を上げる為には、「陽炎型」に搭載されたものよりも強力な機関が何としても必要です。
そこで、次期主力駆逐艦に搭載する予定の新型ボイラーを「陽炎型」に試験的に搭載してみることにしました。
その試験艦が「天津風」です。
従来の「甲型」のボイラーが温度300°C、圧力30kg/cm²の蒸気を生み出したのに対し、「天津風」のボイラーは更に高温高圧の温度400°C、圧力40kg/cm²の蒸気を送り出すことが出来たのです。
この新型缶の搭載によって、燃料の消費量を抑え、また缶そのもののも軽量であったので、「陽炎型」に比べて機関重量の軽減が実現できるはずでした。
試験結果は良好で、航続距離については他の同型艦の6000浬から6300浬への延伸を果たし、海軍は大変満足したとされています。
「天津風」の速力が向上したか否かについては、私は今のところ聞いたことはありません。
この缶の搭載のため、「天津風」乗組員には各種学校の卒業者など、特に優秀者を集め、機関の運転状況や整備状況などの詳細な報告をしていたということです。
「天津風」の成功を踏まえ、この新型缶を装備した次期主力駆逐艦こそ、日本駆逐艦史上に名高い丙型駆逐艦「島風」です。
さて、「天津風」は昭和15年10月26日に舞鶴にて竣工後、「初風」「雪風」「時津風」と共に第十六駆逐隊を編成します。
そして第二水雷戦隊の一員として激しい訓練を積み、夜戦部隊の精鋭として太平洋戦争に参戦することになります。
開戦当日、十六駆は二個小隊に分けられ、「天津風」と「初風」の第二小隊は南比支援隊の中にありました。
ダバオ空襲を試みる軽空母「龍驤」の護衛に当たっていたのです。
しかし「龍驤」のパイロットは技量が高くなく、航法に不安があるとのことで、「天津風」と「初風」、それに二水戦旗艦「神通」は、ダバオと「龍驤」の間に並んで、出撃機の道標役を果たしています。
次いでレガスピー上陸作戦を支援した後、「天津風」と「初風」は「龍驤」と離れ第五急襲隊に編入、ダバオ攻略作戦に従事することになります。
パラオを出撃したダバオ攻略部隊は、昭和16年12月20日にダバオに上陸を開始します。
直接支援に当たっていた「天津風」は、その際に桟橋付近に小艇を発見、捕獲しようと内火艇を派遣しました。
ところが桟橋に接近した「天津風」の内火艇は、敵陸兵からの射撃を受け、危機に陥ってしまったのです。
「天津風」は内火艇の危険を察すると、主砲による支援を開始します。
この結果、内火艇の危機を救うことは成功したのですが、誤ってダバオ市内のガソリンタンクを爆破炎上させてしまい、後に陸軍との間で協定違反を問われることになってしまいました。
もっとも内火艇派遣の理由が小艇捕獲にあるというのは公刊戦史にある表向きの理由で、当時の水雷長の手記には違うことが書いてあります。
原為一「天津風」艦長が桟橋一帯を海軍側で押さえるために内火艇を派遣したというのが真相のようです。
この後「天津風」の所属する二水戦は蘭印部隊に編入され、「天津風」はメナド、ケンダリー、アンボンの攻略作戦に従事します。
さらにクーパン攻略を成功させると、いよいよ南方最大の目的地、ジャワ島の攻略作戦が開始され、「天津風」は二水戦の僚艦たちと一緒にこれに参加することになりました。
「神通」に率いられた「天津風」たち十六駆の4隻は、陸軍を満載した41隻もの輸送船団の護衛任務に就きます。
ジャワ島の要衝スラバヤに向けて航行中の陸軍船団は、絶えずスラバヤに集結していると思われる連合軍艦隊の動向を気にしていました。
25日、「天津風」は前方の海面に1隻の不審船を発見すると、警戒のために接近します。
その船はオランダの病院船「オプテンノート」号でした。
「天津風」がこの船を臨検したところ、特に不審な点はありませんでしたが、船団の位置を隠すために取り敢えず「オプテンノート」を拘束することになりました。
この船は後に日本船籍に編入され、日本側で病院船として行動することになったそうです。
日本側の「オプテンノート」の処遇については色々と問題があるようですが、少なくても「天津風」の臨検について法的問題はないようです。
さてその翌日、恐れていたドールマン提督率いる連合軍艦隊発見の報がもたらされてしまいました。
ドールマン艦隊の目的が日本輸送船団にあることは明らかでした。
「天津風」たちは「神通」に率いられて、敵艦隊の阻止に向かいます。
二水戦の他に五戦隊と四水戦が駆けつけ、2月27日午後、スラバヤ沖海戦が開始されたのです。
結果から言えば、スラバヤ沖海戦において日本艦隊は連合軍艦隊の阻止に成功します。
しかしながらその戦いぶりには批判も多く、第五戦隊の重巡部隊の射程いっぱいの大遠距離砲撃戦、水雷戦隊でも大遠距離雷撃戦、更に魚雷の自爆などが問題視されています。
二水戦に限って言えば、夕方は敵の砲火に遮られて思い切った近接ができず、1万8千メートルの遠距離から「神通」だけが申し訳程度に発射。
その後18時40分に突撃命令が下されると二水戦は敵艦隊に接近、十六駆は距離9千メートル付近(乗組員の手記によるともっと近距離)で雷撃を行いました。
これが「天津風」が経験する初めての実戦雷撃でした。
しかしこの魚雷がどれだけ敵艦隊に到達したかは定かではありません。
水雷長の回想では、二水戦の発射した魚雷の半分以上が発射後1000メートル以内で自爆してしまったそうです。
残る魚雷もドールマン艦隊の左旋回運動によって回避され、結局のところ1本の命中魚雷も得られませんでした。
海戦は日本優勢のまま日没を迎え夜戦に移りますが、二水戦は敵艦隊との接触を失い、気がついたときには五戦隊がドールマン艦隊の主力を雷撃で撃沈していました。
その後、残存敵艦隊の追撃にも失敗し、二水戦にとっては全くいいとこなしの結果に終わってしまったのです。
「天津風」はジャワ攻略作戦後、クリスマス島攻略作戦に参加して母港の呉へ帰投します。
ですが、わずかに疲れを癒しただけで、すぐさまサイパンに出向くことになりました。
次期作戦、ミッドウェイ攻略作戦のためでした。
5月28日、攻略部隊を載せた船団を護衛してサイパンを出撃、一路ミッドウェイに向かいます。
攻略部隊は早々と米軍機に発見され、ミッドウェイから飛来するB17の空襲を受けてしまいます。
B17の爆撃はそれほど効果的ではなく、「天津風」たち攻略部隊は進撃を続けますが、6月5日朝、そのアンテナに南雲機動部隊の三空母被爆の悲報が飛び込んできたのです。
この後の連合艦隊の指揮は混乱を極め、やがて正午に至り攻略部隊船団の避退と、二水戦の攻略部隊・本隊への合同が指示されました。
残された空母「飛龍」を軸に、連合艦隊は残存兵力を統合、反撃を企図していたのです。
「天津風」は二水戦と共に四戦隊に合同すべく機動を開始、しかしその日のうちに「飛龍」被爆、炎上の報が伝わり、ミッドウェイ海戦の惨敗が決定づけられます。
5日深夜、四戦隊への合同を急ぐ二水戦は、偶然「赤城」の姿を目撃します。
それは漆黒の闇の中、艦内から長く尾を引く炎を吐いていたと言います。
南雲機動部隊の四空母全滅により、連合艦隊は遂に撤退を決定、二水戦はトラックへの入港を命じられました。
ミッドウェイ海戦は飛行機に始まり飛行機に終わった戦いでした。
「天津風」を始め全ての水上艦艇は、その目に敵艦の姿を見ることはなく、戦局の推移にほとんど寄与することが出来なかったのです。
トラックへ入港した後、「天津風」は輸送船を護衛しながら内地へ戻ります。
そして7月14日、「天津風」は夜戦の精鋭二水戦から外され、新たに編成された第十戦隊に編入されます。
「長良」を旗艦にいただく十戦隊は、第三艦隊の編制に加えられており、その任務は空母直衛でした。
日本海軍はミッドウェイでの惨敗を教訓として、艦隊編制を空母中心のものに変更したのです。
十戦隊の編成と第三艦隊への編入はその一環でした。
8月に入るまでは「天津風」は内地方面で輸送船の護衛活動に従事していましたが、8月7日、突如として米軍が反攻を開始、ソロモンのツラギ島とガダルカナル島へ海兵隊の大部隊を揚陸してきたのです。
この急報に接した連合艦隊は直ちに反撃を決定、陸軍より一木支隊の協力を取り付けると、その揚陸掩護のために空母機動部隊を差し向けました。
空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」を基幹とする第三艦隊は、8月16日に瀬戸内を出撃。
「天津風」は十戦隊の僚艦と共にこれを直衛、一路ソロモンを目指します。
8月20日、基地航空隊がガ島付近に米空母の活動を確認、次いでガ島飛行場への米軍機の進出が報じられます。
この事態の変化に対応し、機動部隊は時間を惜しんでトラックへの寄港をパス、ソロモン諸島北方よりガダルカナル島へ接近していきました。
8月23日、ガ島北方300浬付近まで進出を終えた機動部隊は、しかし肝心の米空母を発見することが出来ませんでした。
その上、ガ島飛行場が活動を開始した今となっては、不用意に哨戒圏に止まることは得策ではありません。
ミッドウェイの二の舞を恐れる機動部隊司令部は、敵哨戒圏から脱するように北上します。
しかしこの作戦の最終目的は陸軍一木支隊の揚陸にありました。
彼らを運ぶ二水戦を基幹とする増援部隊は、23日に敵哨戒機に発見されていたのです。
どうにもガ島航空隊の存在が邪魔になった機動部隊は24日未明、軽空母「龍驤」を分派せしめ、ガ島飛行場の攻撃に当たらせることにしたのです。
その護衛は、「利根」と「時津風」、そして「天津風」が任じられました。
「天津風」にとっては「龍驤」直衛は開戦直後のダバオ空襲以来のことでした。
「龍驤」を中心とする機動部隊支隊は、早くも敵飛行艇に発見されますが構わず南下、午前10時20分と同48分、二次にわたって攻撃隊を発艦させます。
しかし攻撃隊を収容しようとガ島北方を行動していた支隊は、いつの間にか米空母の攻撃圏内に踏み込んでいたのです。
11時過ぎ、「サラトガ」は「龍驤」に向けて攻撃隊を発進、米攻撃隊は13時に支隊を捕らえます。
その間、「龍驤」は手持ちの零戦を直掩に上げる様子もなく、「天津風」の原艦長は非常にイライラさせられたと回想しています。
米攻撃隊が「龍驤」上空に現れたとき、何機かの直掩機が上空にあったのは確からしいのですが、それも38機にものぼる敵攻撃隊を有効に阻止することは出来ませんでした。
「龍驤」目指して降下してくるドーントレスに対し、「天津風」たちは防御砲火を放ちますが、奮闘及ばず「龍驤」は10発前後の命中弾を浴びてしまいます。
更に低空を忍び寄った8機のアベンジャーの放った魚雷の1本が「龍驤」に命中、「龍驤」は機械室に浸水を許し、やがて航行不能に陥ってしまったのです。
攻撃が終わった後「天津風」は「龍驤」の曳航を試みますが、敵機の空襲により断念、結局「龍驤」は沈没してしまいました。
「天津風」と「時津風」は、「龍驤」乗組員と、帰る場所をなくした龍驤機のパイロットを助け上げ、本隊に合流したのです。
一方の機動部隊本隊は、米空母の発見に成功すると一方的に攻撃隊を送り込みますが、米機動部隊はレーダーによって多数の直掩機を配して待ちかまえていました。
攻撃隊は辛うじて「エンタープライズ」を撃破したものの、米直掩機と熾烈な対空砲火によって艦爆隊は壊滅してしまいます。
「龍驤」喪失と艦爆隊の手ひどい損害、そして米空母二隻撃破の戦果見込みとその退却情報を得た機動部隊は戦闘を断念、トラックへ後退してしまいます。
事実、米機動部隊は戦場から去っていきましたが、その搭載機の何割かはガ島に移動、翌25日からこの作戦の主役たる増援部隊の輸送船を空襲したのです。
この空襲により増援部隊は輸送船「金龍丸」、駆逐艦「「睦月」を失うなどの損害を受ける羽目になり、一木支隊の揚陸は中止のやむなきに至ってしまったのです。
第二次ソロモン海戦と呼ばれるこの海戦は、「エンタープライズ」大破と引き替えに「龍驤」を葬り、何にも増して日本陸軍の増援を阻むことに成功した米海軍の勝利に終わったわけです。
第二次ソロモン海戦の後、一木支隊は新たに増援された川口支隊と共に、闇夜に乗じた駆逐艦のネズミ輸送によってガ島揚陸に成功、9月中旬、川口支隊を主力にガ島飛行場攻撃を開始します。
それに呼応して機動部隊もトラックから出撃、出現が予想される敵機動部隊への警戒に当たりました。
しかしこの時は米機動部隊の出現はなく、戦闘も生起しませんでしたが、川口支隊の総攻撃も失敗に終わってしまいました。
川口支隊の総攻撃失敗を受けた日本陸軍は、次に第二師団の投入を決定、海軍は様々な手段を講じ一ヶ月でその揚陸を終えます。
第二師団は10月下旬、その兵力を整え、ガ島総攻撃を開始することになりました。
この総攻撃にも海軍は全面的に協力し、機動部隊もまたその一環として10月11日、トラックを出撃しました。
これに先だって「天津風」は、ガ島東方にあるヌデニ島の攻撃のため8日トラックを出撃しています。
ヌデニ島には時々米軍の水上機母艦が陣取り、哨戒用の飛行艇の臨時基地として機能していたからです。
機動部隊の行動の支障になる敵哨戒力を削ぎ落とすことは重要な任務でした。
12日深夜に「天津風」はヌデニ島に侵入することに成功しましたが、戦果などは残念ながら不明です。
この後「天津風」は機動部隊に復帰し、「瑞鶴」の直衛についています。
陸軍第二師団の総攻撃は当初10月20日に予定されていましたが、部隊集結の関係から最終的に24日まで延期されました。
南雲中将率いる機動部隊や近藤中将麾下の前進部隊は、陸軍の予定変更に合わせてガ島北方を遊弋していましたが、24日深夜の第二師団の総攻撃に合わせて一気に南下します。
25日未明には飛行場占領電報まで飛び出しましたがこれが誤報で、機動部隊は再び北上、同日夜の攻撃再興を期して南下、翌26日遂に日米機動部隊が激突します。
南太平洋海戦と名付けられたこの海戦は、日米機動部隊がお互いを同時に発見、同時に攻撃隊を発進させるという、戦術的には互角の勝負が展開されました。
兵力的には、日本が「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」に加え「隼鷹」を率いていたのに対し、アメリカは「エンタープライズ」「ホーネット」、そしてガ島航空隊、しかしガ島は陸戦の真っ最中で飛行場の機能は低下しており、この結果戦力的に優位にあった日本機動部隊が終始米機動部隊を圧倒します。
航空機による壮絶な殴り合いの末、日本機動部隊は「エンタープライズ」撃破、「ホーネット」大破・航行不能の戦果を得ることに成功します。
大破した「ホーネット」は、追撃した前進部隊の「巻雲」「秋雲」が雷撃によって撃沈、日本海軍はミッドウェイの敵を討ったと自画自賛する海戦になったのです。
その代償として、「ホーネット」の降爆によって「翔鶴」が被弾、飛行甲板が大破して戦闘能力を喪失、「瑞鳳」もまた「エンタープライズ」を発した索敵爆撃機の奇襲を受け、同じく飛行甲板を破壊される損害を負ってしまいました。
更に航空機とパイロットの消耗も相当のものがあり、日本機動部隊はこの海戦以降、しばらくの間動きが取れない状態になってしまいました。
南太平洋海戦では確かに戦果も挙げましたが、残念ながら今回も「天津風」たち十戦隊の駆逐艦戦隊は、空母を守り抜くことができなかったことになります。
そして24日夜間から開始された第二師団によるガ島飛行場総攻撃は、26日午前6時、第十七軍司令部によって中止命令が発せられていました。
つまり失敗に終わったのです。
第二師団による攻撃は失敗しましたが、戦況はもう一押しであると判断した陸軍は、続いて第三十八師団の投入を決断しました。
海軍はこの揚陸をガ島方面に展開する水上戦力のほぼ全力を投入して支援することにします。
連合艦隊はこの支援作戦がもう戦力的にも燃料的にも、恐らく最後の全力出撃だと判断していたようです。
輸送船団のガ島揚陸の成功のためには、ガ島飛行場の制圧が絶対条件でした。
が、それを成し得るのはもはや水上打撃部隊をおいて他にありませんでした。
ラバウル空による空襲では戦力的・距離的な問題からガ島飛行場を沈黙させることは難しく、空母機動部隊もまた南太平洋海戦で大きな損害を負っていたからです。
それに何と言っても10月に三戦隊の「金剛」「榛名」がガ島飛行場を砲撃し、一時的に飛行場能力を麻痺させた実績がありました。
そこで、空母後退によって一時的に暇になった第十一戦隊「比叡」「霧島」をもって、ガ島飛行場制圧を行うことになったのです。
彼女たちの護衛には、同じく空母直衛部隊の十戦隊が選ばれました。
うち続く戦闘で、ガ島方面の水雷戦隊はその勢力を大きく減じており、ピンチヒッターが必要だったのです。
他に四水戦が前路掃討隊として行動を共にします。
ガ島砲撃予定日は11月12日深夜。
日本艦隊は激しいスコールに遭遇しつつも、ガ島へ接近しつつありました。
ですがその時、ガ島飛行場の前面にはキャラガン少将率いる米艦隊が、ほとんど決死の覚悟で日本艦隊を待ち受けていたのです。
そして相互の錯誤と偶然の結果、日米両艦隊は反航状態で互いの艦隊に突入、混戦に陥ってしまったのです。
後の呼称、第三次ソロモン海戦・第一夜戦。
両軍合計25隻、彼我の最短距離は1000メートル以下、相対速力60ノット近い、それはまさに鋼鉄の大乱闘でした。
「天津風」は「比叡」の左舷側やや前方、「雪風」の後方に占位していました。後方には「照月」。
「天津風」にとって戦闘は、しかし唐突でした。
「比叡」探照灯照射、主砲発砲。ほとんど同時に敵艦隊の一斉射撃が「比叡」に集中。
射撃の閃光、発光して飛び交う砲弾、炸裂時の爆光、そのどれもが闇に慣れた目を幻惑。
「天津風」の原艦長は思わず立ちすくんだと言いますが、やがてそれにも慣れると敵艦隊への突撃を開始します。
誰かの艦が一瞬照射した探照灯によって敵艦隊の位置を確認すると、「天津風」は1隻の巡洋艦を目標に選び、素早く魚雷を発射。
スラバヤ沖では全て外した魚雷でしたが、今度は狙い違わず敵巡を捕らえ、これを撃沈します。
一時的にフロリダ島岸まで迷い込んだ「天津風」は再び戦場の方へ戻りますが、その眼前、距離1000メートル弱の位置に不意に大型巡洋艦が現れます。
次発装填を終えていた「天津風」は直ちに魚雷4本を発射、同時に猛砲撃を加えこれを退けます。
しかしその際に探照灯を点けたのが災いし、たちまち闇夜からの砲撃を受け始めてしまったのです。
砲弾は次々と命中して火災が発生、主砲も動かなくなり、更に衝撃で舵も故障、操艦の自由を失ってしまいます。
第二缶室にも敵弾が飛び込み缶が停止、更に浸水のため「天津風」は一時的に左舷に14度の傾斜を見ました。
やがて弾雨が止むと、「天津風」は急いで火災の鎮圧と、故障した舵の復旧を試みます。
特に操舵が出来ないと座礁の危険がありました。
敵飛行場の眼前での座礁では、助かる道などあろうはずもありません。
そうなってはお終いです。
しかし幸いなことに、すぐに応急操舵に成功したのです。
操艦の自由を取り戻した「天津風」は、よろよろとですが生きて戦場を脱出することが出来ました。
避退中も「天津風」は米軍機に発見され攻撃を仕掛けられましたが、辛うじてこれを凌ぎ、13日午後に味方艦隊との合流を果たしたのです。
通信機が破壊されていた「天津風」は、味方艦隊に視認されるまで夜戦で撃沈されたものと思われていたそうで、合流した味方艦から次々と手旗や発光信号で「生還おめでとう」という祝辞を受けたそうです。
「天津風」にとって幸いだったのは、この海戦が類例のない接近戦だったことです。
砲弾は水平弾道を描き、「天津風」は上部構造物にこそ大きなダメージを受けましたが、船体そのものにはほとんど損害がなかったのです。
その上、命中弾の大部分が5インチ砲で、しかも不発だったという幸運にも恵まれていました。
天津風の戦果は巡洋艦1撃沈、同1撃破。
その後の調査では駆逐艦「バートン」撃沈、重巡「サンフランシスコ」撃破と判定されていますが、「バートン」撃沈は「暁」によるものとする資料もありますし、「サンフランシスコ」の方は魚雷を受けなかったために生還したとされていることから、「天津風」の雷撃は空振りだったか、「サンフランシスコ」以外の艦であったと思われます。
なんにせよ、衝突がないのが不思議だったと言われるくらいの接近戦で、しかも闇夜で相互の視認は困難、当事者のキャラガン艦隊は壊滅したため、正確な戦果の照合は困難至極でしょう。
損害のひどい「天津風」はトラックへの回航を命じられ、そこで工作艦「明石」による応急修理を受けた後、内地にて本格的な復旧工事を受けました。
トラックへ再びその姿を現したのは、翌18年の2月のことでした。
ちょうどガ島撤退作戦を終えた直後です。
トラックに進出した「天津風」は工作船「雄島」を護衛してニューギニアのウェワクまで出向き、米潜の雷撃で大破した「春雨」を曳航して帰ってきます。
4月以降はパラオとニューギニアの間で輸送作戦の繰り返しが待っていました。
米軍の反攻の圧力は、ソロモン方面だけでなくニューギニア方面でも顕著になっていたのです。
この方面の防衛は主として陸軍が担当し、また敵制空権下での強行輸送ではないので、輸送船を用いた輸送でした。
「天津風」が十戦隊として空母直衛任務に戻るのは9月のことのようです。
い号作戦で消耗した母艦搭乗員の補充が終わり、戦力が回復しつつあった空母機動部隊が、第二艦隊との合同訓練を兼ねてブラウンへ進出した際です。
但し「天津風」の名は編制表には載っておらず、機動部隊に「天津風」が随伴したかどうか確証はありません。
また10月には、米機動部隊来襲の公算が大きいという理由から再び機動部隊のブラウン島への進出が行われますが、この時は「天津風」はタンカーを護衛してブラウン島まで進出を試みたようです。
この行動もまた確証はありません。
11月は輸送船を護衛してトラックからラバウルまで往復、更にトラック~パラオ間でも輸送船護衛任務に従事します。
2月のトラック再進出からの10ヶ月間、護衛活動に従事した「天津風」は12月7日、軽空母「千歳」や給糧艦「伊良湖」を護衛して内地へ戻っていきました。
そして呉に入渠、長期間の外洋行動の疲れを癒したのです。
昭和19年1月11日、軽空母「千歳」と十戦隊の「雪風」そして「天津風」が、輸送船4隻を護衛して門司港を出港します。
ヒ三一船団と呼ばれるこの輸送船団は、連合艦隊の持つ軽空母と精鋭十戦隊の駆逐艦が参加した輸送部隊として、ある意味画期的な船団でした。
それまで輸送を軽視しがちであった連合艦隊が、海上護衛総隊の意見を容れて、例外的にタンカー船団の直接護衛に乗り出した初めての例だったからです。
船団に参加しているのはいずれも優秀なタンカーばかりで、既に枯渇の度を深めつつあった内地の燃料事情を好転すべく、シンガポールまで燃料を取りに行くという重要な使命を帯びていました。
門司港からシンガポールまで直行ルートをたどる船団は、「千歳」の搭載する九七艦攻による対潜哨戒の効き目か、米潜に襲撃されることなく南シナ海へと踏み込むことが出来ました。
1月16日の夕刻、その頼みの九七艦攻が使用できなくなった日没間際のことです。
「天津風」は10キロほど先に、浮上している敵潜を発見すると、直ちに増速、追い払いにかかります。
しかし十分に近づけないうちに米潜は潜航してしまったため、「天津風」は爆雷を落とすかどうか迷いました。
もし協同作戦中の米潜がいたら、「天津風」が深追いして船団を離れると船団が危険に陥ります。
「天津風」は取り敢えず威嚇投射を行って船団に引き返すことにして、米潜の潜航位置付近で右旋回をしました。
その直後、見張り員の悲痛な叫びが艦橋に響き渡ります。
「雷跡、左90度、近い!」
ですがその時にはもはや為す術はなく、魚雷は「天津風」の1番缶室付近に吸い込まれ、炸裂したのです。
「天津風」は1番煙突付近で両断され、艦首部はしばらく浮いていましたがやがて沈没、艦尾部も缶室の全てに浸水を見ましたが、辛うじて浮力を保つことに成功します。
艦首部に残された乗組員は、沈没が避け得なくなると艦尾部への脱出を試みましたが、荒れる夜の海にその多くが飲み込まれ、生存者は少ないものでした。
被雷による戦死者は、十六駆司令古川大佐以下76名を数えてしまいます。
艦尾部も機械室の隔壁が最後の防壁という状態で、決して安全な状況とは言い難く、素早い救援が必要でした。
ところが頼みの僚艦「雪風」は、船団に残された唯一の駆逐艦であるため、「天津風」の救援には来れませんでした。
ここから「天津風」の長い苦闘が始まったのです。
翌17日、運転の止まっていた機械が復旧、ポンプが生き返ったために「天津風」の状態はやや好転しました。
同時に後部電信室も使用可能になり、「天津風」は早速救援要請を打電します。
ところがチャートも暗号書も艦橋と共に流失していました。
暗号は生き残った通信士が応急暗号を暗記していたために事なきを得ましたが、困ったのは遭難位置が不明なことです。
艦に残された地図と言えば月刊「キング」付録の大東亜共栄圏の地図ただ1枚という有様で、しかし藁にもすがるような思いで「天津風」乗組員はこれを使って艦位を推定、位置を打電したのです。
すぐさま高雄通信所より、捜索のためにサイゴンの一式陸攻を差し向ける旨の回答がありました。
ほっと安堵する「天津風」乗組員でしたが、待てど暮らせど陸攻の姿は見えません。
やがて高雄通信所より「艦位は正しいか」との確認電。
「天津風」が自信がないと回答したところ、高雄通信所は一式陸攻が1日中捜索したが「天津風」を発見できなかったと言ってきました。
どうやら推定した艦位が大幅に狂っているようでしたが、「天津風」にはどうしようもありませんでした。
18日は天候悪化のため発進した捜索機は引き返し、19日、20日は終日悪天候で捜索機の発進もできませんでした。
21日には味方の復航船団が推測艦位付近を航過する旨の連絡があったのですが、水平線にマストの1本も発見できず、これも空振りに終わってしまいます。
22日も状況変化なし。
この間、「天津風」では食糧も尽き、乗組員の体力的な問題が表面化していました。
機械室の隔壁も補強してあるとは言えいつまで持つかわかりません。
23日、遂に田中艦長が無線波を各通信隊に方位測定してもらうことを決断します。
航行不能の「天津風」にとって電波を出すことは敵潜をおびき寄せかねない危険な賭けでしたが、状況好転の見込みがない以上、賭けに出ざるを得なかったのでしょう。
「天津風」は各通信隊に方位測定を依頼すると、中波を発信。
そして賭けに勝ったのです。
方位測定は成功し、直ちに捜索機が発進、23日の15時頃、待ちに待った捜索機の影が「天津風」乗組員の視界に入りました。
一式陸攻は疲れ切った「天津風」を元気づけるように何度も上空を旋回し、通信筒を投下して飛び去っていきました。
「天津風」乗組員がフカの泳ぐ海に必死の覚悟で飛び込み、何とか拾い上げた通信筒には、測定された艦位と、救援艦の手配が記されていました。
正確な艦位は推測艦位に比べなんと100浬もずれていたのです。
漂流8日目の24日14時頃、「天津風」が鶴首していた救援駆逐艦「朝顔」が姿を現しました。
次いで「第十九号駆潜艇」が現れ、その2隻が最初にしてくれたことが、「天津風」乗組員へ握り飯を送ることでした。
食うや食わずで漂流していた「天津風」乗組員はこれに涙したそうです。
それから曳航の準備を徹夜で行い、25日からサンジャックへ向けての曳航が始まったのです。
「朝顔」が「天津風」を曳航、「第十九号駆潜艇」が周囲を警戒しながら進みます。
曳航索が切れるなどのアクシデントがあったものの、29日、「天津風」はようやくサンジャック付近に到達することが出来ました。
そこではフランスの曳航船が出迎えてくれ、「朝顔」に代わって「天津風」を曳航、サンジャックに引き入れてくれたのです。
しかし「天津風」は応急措置のため、取り急ぎ入渠する必要がありました。
フランス海軍のドックがサイゴンにあるので、30日にはまた曳航されてサイゴンへ移動、「天津風」はここで応急修理を受けることになったのです。
サイゴンでの「天津風」の応急修理は長引きました。
当時の乗組員の回想によると、被雷時に各機関に海水が浸入、その分解整備を乗組員自らの手で行わなくてはならなかったということで、外地での修理と言うことも合わせて大きな遅延に繋がったのでしょう。
応急修理が大体終わったのが昭和19年10月下旬だったのです。
既にマリアナ沖で未曾有の敗北を迎え、戦場は「天津風」の入渠しているサイゴンのすぐそば、フィリピンに移っていました。
その間、「天津風」乗組員は彼女のそばを離れることはありませんでした。
サイゴンの海軍病院の一部を間借りし、そこを宿舎にして「天津風」の警備と修理、保守に当たっていたのです。
「天津風」乗組員のサイゴン滞在記も、当時のフランス海軍との関係がわかり興味深いものがあります。
応急修理を終えた「天津風」は昭和19年の11月、シンガポールへ移動することになります。
そこで仮艦首を装着し、内地への回航を可能にするためでした。
内地にたどり着けた暁には、「天津風」は完全復旧される手筈だったのです。
福井静夫氏の手記に「天津風」の復旧計画に関するいくつかの情報が残されています。
それによると、「天津風」艦首部を軟鋼で完全新造、但し図面は簡略化して「1号輸送艦」と類似の形式に変更、復旧を利用して艦尾の爆雷兵装の大幅強化も考えられていました。
また「天津風」の3つある缶のうち2つが破壊されたのですが、これは2つを新造して元通りに復旧、艦首形状の変化の影響から速力は30ノット程度への低下を予定していたようです。
注目すべきは、艦橋は原型とは一変し「松型」を参考にするとあることで、もしこれが実現したら復旧後の「天津風」の艦容は一種独特なものになったことでしょう。
11月8日、「天津風」は輸送船「永福丸」に曳航されてサイゴンを出港、15日に無事シンガポールに到着します。
しかしシンガポールももはや安全な場所ではなくなっていました。
インドから飛来するB29の爆撃を受けるようになっており、何より10月下旬の比島沖海戦において、連合艦隊はその主要戦力のほとんどを失っていたのです。
シンガポールに入港した「天津風」は直ちに仮艦首の装着作業に入りました。
長い間艦を動かすことのなかった「天津風」乗組員の再訓練も、次第に熱を帯び始めます。
1月末には仮艦首の装着は終わり、試運転が開始されます。
その結果、応急修理前は12ノット程度が限度と予想された速力が、何と20ノット強まで出し得る見込みがつきました。
空席だった固有の艦長職にも、若干25歳ですが森田大尉が着任し、「天津風」は内地帰還の準備が整ったのです。
昭和20年3月17日、「天津風」は第一南遣艦隊から一通の電報を受け取ります。
それは「天津風」に、戦略物資搭載と、ヒ八八J船団への加入を命じていました。
ヒ八八J船団に参加する商船は、タンカーが3隻と貨物船1隻。
しかしこの時期、南方資源地帯からの物資還送ルートは米陸軍機と潜水艦によって完全に遮断されていました。
この航海がおよそ生還を期し難い困難な航海になることは火を見るよりも明らかだったのです。
その困難の中から一筋の光明を見出すため、「満珠」「第十八号海防艦」「第二十六号海防艦」「第八十四号海防艦」「第百三十号海防艦」「第百三十四号海防艦」の6隻の海防艦が護衛につくことになりました。
この他、サイゴン行きの輸送船3隻が途中まで便乗することになり、総勢は14隻。
「天津風」への命令は、船団に加入することであって護衛ではありませんでした。
ですから本来であれば、船団の中にあって海防艦に護ってもらう位置にあるはずでした。
しかし「天津風」は後部主砲2基が健在で、また速力も20ノットを出し得ることから、森田艦長は単なる船団の一員ではなく護衛としての任務を果たすことを申し出ます。
この申し出は、恐らく駆逐艦としての意地もあったのではないでしょうか。
船団指揮官との交渉の結果、「天津風」は船団後方で護衛任務に従事することを許されたのです。
3月19日、ヒ八八J船団は門司を目指してシンガポールを出港しました。
しかしシンガポール湾口でタンカー「さらわく丸」がいきなり触雷、沈没してしまいます。
出鼻をくじかれつつも、船団は1時間後に隊形を整え直し、サンジャックに向けて航行を再開。
7ノットという低速で進む船団は、それでも奇跡的に敵に発見されることもなく、26日サンジャックに到着することが出来ました。
ここでサイゴン行きの3隻を分離、反対に「第二十号駆潜艇」が護衛に参加、11隻となった船団は陸岸沿いをなおも北上します。
しかし幸運も長くは続きませんでした。
27日、遂に米偵察機に発見されてしまったのです。
一度発見されたからには、船団の行く手には必ず敵機の空襲か敵潜の待ち伏せがあることを覚悟せざるを得ませんでした。
船団は異様な緊張に押し包まれながら北上を続けることになったのです。
28日、新たに「第一号海防艦」「第九号駆潜艇」が合同、護衛艦は「天津風」を含め10隻になりました。
しかしその日、船団は米陸軍機の空襲と米潜の雷撃に終日つけ狙われ、「第二十六号海防艦」の反撃で米潜1隻を撃破するも、3隻の商船のうち「阿蘇川丸」「鳳南丸」の2隻が撃沈されてしまいました。
29日も米軍はしつこくつきまとい、最後の「海興丸」も遂に敵機に食われ、船団の商船は脆くも全滅してしまったのです。
残る護衛艦群は今度は自分たちの身を守る戦いを始めますが、米軍機の空襲は執拗かつ苛烈を極め、「第十八号海防艦」「第八十四号海防艦」「第百三十号海防艦」が撃沈、他の艦も多かれ少なかれ損害を負っていきます。
「天津風」自身も何度も米潜に狙われますが、仮艦首の起こす大きな艦首波のために速力を見誤ったらしく、雷跡の全てが艦首前方を通り抜けて行ったそうです。
それどころか「天津風」は、夜間爆撃を試みた米PBY飛行艇を機銃で撃墜することに成功しています。
生き残った護衛艦隊は30日、海南島の楡林港に滑り込みますが、執拗を絵に描いたような米陸軍機はここにも来襲します。
これによって「第二十六号海防艦」が損傷脱落、残る6隻は早々に海南島を離れ香港へと逃げ込んだのです。
4月2日、「天津風」たち6隻はようやく香港に投錨することができました。
ですがこの香港すらも「天津風」たちにとって安住の地ではありませんでした。
翌3日、香港が空襲され、「天津風」たちと行動を共にしていた海防艦「満珠」が爆弾を浴び、大破着底してしまったのです。
「天津風」は香港で急遽、単装機銃3挺の増設工事にかかります。
これは、擱座した「満珠」から譲り受けた、言わば形見の機銃でした。
機銃の増備は、これからの航海に備えるためです。
生き残った護衛艦たちは、香港の根拠地隊の依頼により、新たに2隻の輸送船を内地へ護送することになったのです。
4日夕刻、ホモ〇三と名付けられた船団は香港を出港しました。
目的地は門司。
輸送船「甲子丸」「第二東海丸」を「第一号海防艦」「第百三十四号海防艦」「第九号駆潜艇」「第二十号駆潜艇」そして「天津風」が護ります。
しかし5日の未明、船団は夜間爆撃を受け、早くも「第二東海丸」が被爆沈没してしまいます。
「第九号駆潜艇」は損傷を負いながらもこれを救援、そのまま香港に引き返していきました。
更に悲劇は続き、午後には残る「甲子丸」も空襲で撃沈されてしまったのです。
この「甲子丸」には内地への帰還のため便乗者が多く、海上には多数の漂流者が浮き沈みすることになってしまいました。
「天津風」と「第二十号駆潜艇」は遭難者の救助に当たり、合計260名あまりを助け出すことが出来ましたが、これは便乗者の半数に過ぎませんでした。
「第二十号駆潜艇」は遭難者の救助を終えると、香港に引き返していきました。
救助活動を打ち切って「第二十号駆潜艇」に任せた「天津風」は、しかし香港へは引き返しませんでした。
彼女の船底には、シンガポールで積み込んだ10トンのレアメタルがそのまま残されていました。
また、母港に戻って船体を完全復旧しなくてはならないという使命もあったのです。
「天津風」は単艦で北上を再開します。
「甲子丸」救助活動の間も「第一号海防艦」「第百三十四号海防艦」は北上を続けており、「天津風」とは20浬も離れてしまっていたからです。
「天津風」はこれを追跡したのです。
しかし6日11時50分、「天津風」は接近してくる機影を認めます。
5機のB25でした。
「天津風」、対空戦闘用意。
ところがB25は「天津風」に気づかず、そのまま「天津風」の後方へと飛び去っていきます。
ほっと胸をなで下ろす「天津風」乗組員たち。
しかししばらく後、B25が飛来してきた方角から、数条の煙が上がったのです。
先行した「第一号海防艦」「第百三十四号海防艦」が空襲を受け、撃沈されていたのです。
すれ違ったB25の編隊は、この空爆に参加し損ねて、他の獲物を探していたのです。
この5機をやり過ごすことはできた「天津風」ですが、今度は17機の編隊を視界内に捕らえます。
そしてこの編隊の目からは逃れることが出来ませんでした。
B25は大きく旋回すると、「天津風」に向けて覆い被さってきたのです。
「天津風」はこの強力な敵に対して対空戦闘を開始、必死の防戦を試みます。
B25は3機ずつ、6波に分けて反跳爆撃をしかけてきました。
第一波、第二波の攻撃は全弾をかわし、尚かつ第一波の1機を「天津風」は対空砲火に捕らえ、これを海中に叩き込みます。
続く第三波は艦尾方向から接近、「天津風」はこれを回避しようとしますが、B25が投下した爆弾の1発が「天津風」後部の2番砲と3番砲の間に命中してしまったのです。
この被弾により、「天津風」の2番砲、3番砲は破壊されてしまいます。
ですがこの命中弾を投下したB25も「天津風」の対空砲火を発動機に被弾し、撃墜されていました。
爆煙をあげる「天津風」に対し、第四波が爆撃を開始、更に2発が命中。
2発の爆弾は後部電信室と補機室をそれぞれ破壊、「天津風」は大破、炎上してしまいます。
この後の第五波、第六波の爆撃は、すでに爆弾を使い果たしていた部隊らしく、「天津風」は攻撃を回避することに成功します。
しかしB25の恐ろしいところは、その強力な機銃掃射力でした。
爆弾が命中しなくとも装甲のない駆逐艦、機銃掃射を何度も受ければ缶が傷つくこともあるでしょうし、船体にダメージはなくても人員への被害はどれくらいになるかわかりません。
B25部隊は今度はその機銃掃射を狙っていたのです。
ところが、B25の編隊は「天津風」の上空から飛び去ってしまいます。
入れ替わって、味方戦闘機が「天津風」の上空に飛来してきました。
B25は日本戦闘機の出現を見て、機銃掃射を断念したのです。
この時に「天津風」を襲撃したB25は、数枚の写真を撮影しています。
米軍機の猛攻を回避する「天津風」の痛々しい姿を写した写真は、日本輸送船団潰滅の象徴として今でもしばしば使用されます。
「天津風」を紹介する略歴の多くも、この攻撃によって「天津風」は撃沈されたことにしています。
しかし既述の通り、この攻撃で「天津風」は沈んではいませんでした。
「天津風」と「天津風」に命を託す乗組員たちの生存のための戦いは、未だ終わっていないのです。
とは言え、「天津風」は直撃弾3発を浴びて若干の浸水と火災が発生、主砲と無線は破壊、更に機関にも影響が及んでおり、まさに満身創痍の状態でした。
まず、後部で発生した火災が問題でした。
火災箇所は2番、3番砲塔でした。
火災による熱で、既に火薬庫では装薬缶の誘爆が始まっているような気配です。
このままでは弾火薬庫に火が回り、爆沈の可能性すらあります。
頼みの注水弁は被弾によって破壊されており、注水は人力に依るほかありません。
ほとんど絶望的な状況でした。
ところが不意に火勢が衰えてきたのです。
この頃海が荒れ始め、被弾によって生じた破孔から海水が浸入し、注水の役目を果たしてくれたのです。
完全に鎮火はしていないものの、このおかげで爆沈の危険からは脱することが出来ました。
もう一つ問題だったのは機関の故障です。
機関故障の原因は、被弾による潤滑油タンクの損傷でした。
潤滑油に海水が混入し、無理に運転すれば軸受が焼き付いて完全に動けなくなる恐れがあったのです。
しかし既に米軍機が再び接触を始めており、このまま動けないようだと再空襲を受ける可能性があります。
もちろん以前のように8日間も漂流して助かるという保証はありません。
検討の結果、「天津風」は運転を強行することに決しました。
機関科による懸命の整備の結果、右舷軸の使用が可能になります。
航海科でも、故障した舵を人力操舵に切り替えます。
まず右舷軸から運転を開始、「天津風」は少しずつ動き始めました。
更に左舷軸も運転の見込みがつき、運転開始。
目的地は、30浬の距離にある廈門。
「天津風」はわずか6ノットの速力ですが、絶望の淵から確実に逃れつつありました。
6日19時半、緊張の航海を続けた果てに「天津風」は遂に廈門にたどり着きます。
「天津風」は港外で機械を停止すると、見張所に対して機雷堰の位置を問い合わせます。
20分ほど待たされた後、「天津風」は、既に機雷堰を通過したと告げられました。
恐ろしい話ですが、この20分の間に機雷堰の中を「天津風」は漂泊していたようなのです。
潮流に流されるままの「天津風」は、幸いにして機雷を炸裂させることなく乗り切った形になったわけです。
しかし一方で、「天津風」にとってこの20分は取り返しのつかない時間になってしまいました。
機械を停止していた時間があまりにも長く、軸受けがとうとう焼き付いてしまったのです。
運転の見込みがなくなった「天津風」は、投錨して仮泊しようと試みますが、仮艦首にとりつけられた錨には錨鎖がなく、艦を停止させることができませんでした。
自由の利かない「天津風」は潮に流され、20時20分、岩礁に乗り上げてしまったのです。
「天津風」は廈門に救援を要請、廈門は警備艇を派遣してきましたが、警備艇による曳航、離礁の試みは成功に至りませんでした。
満潮になって「天津風」は自然に離礁しましたが、もはや船体を希望する場所に移動させる術はありませんでした。
7日の明け方、風と潮によって「天津風」は廈門島の南側対岸に擱座してしまったのです。
やがて擱座した「天津風」を、現地の住民が物珍しそうに眺め始めました。
これに対し、廈門根拠地から目と鼻の先にある場所ということもあって、「天津風」側は特に警戒などはしていませんでした。
ところが「天津風」はいきなり軽機関銃による銃撃を受けたのです。
「天津風」は直ちに25ミリ機銃によって応射、戦闘能力が健在であることを誇示します。
この不意打ちによって乗組員1名が戦死するなどの被害を受けてしまいました。
しかし擱座したこの地が敵地であることが判明した今、早急に艦の処分を検討しなくてはなりませんでした。
米軍の偵察機も既に「天津風」を発見しており、いつ空襲があってもおかしくありません。
「天津風」は最後の試みとして、廈門在泊の小型船舶をもってもう一度離礁を図ります。
そしてこれも失敗してしまったのです。
ここに至って、森田艦長は「天津風」の放棄を決意せざるを得ませんでした。
第三次ソロモン海戦での被弾、ヒ三一船団護衛中の被雷、そしてホモ〇三船団での被爆。
「天津風」は三度に亘る沈没の危機を、その度に乗り越えてきました。
その「天津風」の命運も、遂に尽きたのです。
4月8日、森田艦長、総員退艦を下令。
8日から10日まで、廈門方面特別根拠地隊の応援をあおいで、兵装や食糧などの物件を揚陸。
そしていよいよ、「天津風」の主要箇所に爆雷が仕掛けられていきました。
4月10日日没時、爆雷に点火。
多くの乗組員たちに看取られながら、「天津風」はその生涯を閉じたのです【注1】。
その乗組員たちは、「天津風」の土壇場での踏ん張りがなければ、生きて祖国の土を踏むことが出来なかったでしょう。
「天津風」自身は内地へたどり着けませんでしたが、乗組員を内地へ生還させることには成功したと言えるのではないでしょうか。
【注1】
森田艦長が司令部に対して「天津風」放棄を報告した電報には、「天津風」を味方機による爆撃によって処分とあります。
ですが、森田艦長自身や他の乗組員の手記によると、爆薬を仕掛けての処分となっており、ここでは後者を採っています。
駆逐艦天津風・略歴 | |
---|---|
昭和14年 2月14日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和15年10月26日 | 舞鶴工廠にて竣工 |
昭和16年12月 6日~ | パラオ出撃、ダバオ攻撃に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・比島部隊・南比支援隊) |
昭和16年12月 8日~ | レガスピー上陸作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・比島部隊・南比支援隊) |
昭和16年12月17日~ | パラオ出撃、ダバオ攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・比島部隊・第五急襲隊) |
昭和17年 1月 9日~ | ダバオ出撃、メナド攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第二護衛隊) |
昭和17年 1月21日~ | バンカ泊地出撃、ケンダリー攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第一根拠地隊) |
昭和17年 1月28日~ | バンカ泊地出撃、アンボン攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第一根拠地隊) |
昭和17年 2月17日~ | アンボン出撃、クーパン攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第一根拠地隊) |
昭和17年 2月25日~ | マカッサル出撃、ジャワ攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊) |
昭和17年 2月27日~ | ジャワ攻略作戦に従事中、スラバヤ沖海戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊) |
昭和17年 3月30日~ | バンダム湾出撃、クリスマス島攻略作戦に参加 (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊) |
昭和17年 4月25日~ | マカッサル出港、呉に帰投(5.3呉着) |
昭和17年 5月12日~ | 呉に入渠、修理・整備(5.16出渠) |
昭和17年 5月21日~ | 呉出撃、サイパンに進出(5.25サイパン着) |
昭和17年 5月28日~ | サイパン出撃、ミッドウェイ作戦に参加(6.13トラック着) (第二艦隊・第二水雷戦隊・第十六駆逐隊/攻略部隊・護衛隊) |
昭和17年 6月16日~ | トラック~横須賀間にて輸送船護衛任務(6.21横須賀着) |
昭和17年 6月29日~ | 内地方面にて輸送船護衛任務 |
昭和17年 8月16日~ | 呉出撃、ガダルカナル増援作戦に従事(9.2トラック着) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・機動部隊・本隊) |
昭和17年 8月24日~ | 呉出撃ガダルカナル増援作戦に従事中、第二次ソロモン海戦に参加 (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・機動部隊・本隊) |
昭和17年 9月10日~ | トラック出撃、ソロモン方面作戦を支援(9.23トラック着) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・機動部隊・本隊) |
昭和17年10月 8日~ | トラック出撃、ヌデニ島砲撃、続いてガ島支援作戦に従事(10.31トラック着) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・機動部隊・奇襲隊) |
昭和17年10月26日~ | 南太平洋海戦に参加(第三艦隊・本隊) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・機動部隊・本隊) |
昭和17年11月 9日~ | トラック出撃、ガ島砲撃作戦に参加(11.18トラック着) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・前進部隊・挺身攻撃隊) |
昭和17年11月12日~ | ガ島砲撃作戦に従事中、第三次ソロモン海戦・第一夜戦に参加、小破 (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/支援部隊・前進部隊・挺身攻撃隊) |
昭和17年11月18日~ | トラックにて応急修理(11.26応急修理完了) |
昭和17年11月26日~ | トラック出港、呉に帰投(12.1呉着) |
昭和17年12月18日~ | 呉に入渠、修理・整備(12.24出渠) |
昭和18年 1月24日~ | 呉に入渠、修理・整備(1.26出渠) |
昭和18年 2月 4日~ | 呉出撃、トラックに進出(2.10トラック着) |
昭和18年 2月15日~ | トラック~ウェワク間にて工作船護衛任務(2.17ウェワク着) |
昭和18年 2月17日~ | ウェワク~トラック間にて「春雨」曳航(2.23トラック着) |
昭和18年 3月29日~ | トラック出港、ラバウル経由パラオに回航(4.3パラオ着) |
昭和18年 4月 6日~ | パラオ~ハンサにて輸送船護衛任務(4.12ハンサ着、4.18パラオ着) |
昭和18年 4月26日~ | パラオ~ウェワクにて輸送船護衛任務(5.1ウェワク着、5.6パラオ着) |
昭和18年 5月 8日~ | パラオ~ウェワクにて輸送船護衛任務(5.13ウェワク着、5.17パラオ着) |
昭和18年 5月23日~ | パラオ~ハンサにて輸送船護衛任務(5.28ハンサ着、6.3パラオ着) |
昭和18年 6月 5日~ | パラオ~ウェワクにて輸送船護衛任務(6.10ウェワク着、6.15パラオ着) |
昭和18年 6月21日~ | パラオ~ハンサにて輸送船護衛任務(6.27ハンサ着、7.2パラオ着) |
昭和18年 7月 5日~ | パラオ~ウェワクにて輸送船護衛任務(7.10ウェワク着、7.14パラオ着) |
昭和18年 7月19日~ | パラオ出港、トラック経由呉に帰投(8.1呉着) |
昭和18年 8月 5日~ | 呉に入渠、修理・整備(8.9出渠) |
昭和18年 8月16日~ | 呉出撃、トラックに進出(8.23トラック着) |
昭和18年 9月18日~ | トラック出撃、ブラウンに進出(9.20ブラウン着) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/機動部隊・本隊) |
昭和18年 9月23日~ | ブラウン出港、トラックに回航(9.25トラック着) (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/機動部隊・本隊) |
昭和18年10月13日~ | トラック出港、丁三号輸送部隊トラック入港護衛任務(10.20トラック着) |
昭和18年10月21日~ | トラック~ブラウン間にて輸送船護衛任務(途中反転、10.27トラック着) |
昭和18年11月12日~ | トラック出港、パラオに回航(11.16パラオ着) |
昭和18年11月17日~ | パラオ~トラック間にて輸送船護衛任務(11.24トラック着) |
昭和18年12月 7日~ | トラック~横須賀間にて「千歳」「伊良湖」護衛任務(12.14横須賀着) |
昭和18年12月17日~ | 横須賀出港、呉に回航(12.19呉着) |
昭和19年 1月11日~ | 門司~シンガポール間にて、ヒ三一船団護衛任務 (第三艦隊・第十戦隊・第十六駆逐隊/第一海上護衛隊) |
昭和19年 1月16日 | ヒ三一船団護衛に従事中、米潜の雷撃により大破 |
昭和19年 1月29日 | サンジャック入港 |
昭和19年 1月30日 | サイゴン入港 |
昭和19年 1月31日~ | サイゴンに入渠、応急修理(出渠日不明) |
昭和19年11月 8日~ | サイゴン出港、シンガポールに回航(11.15シンガポール着) |
昭和19年11月16日~ | シンガポールにて応急修理、整備・訓練 |
昭和20年 3月19日~ | シンガポール~門司間にて、ヒ八八J船団護衛任務(3.29輸送船全滅) |
昭和20年 3月30日 | 海南島に入港 |
昭和20年 3月31日 | 海南島出港、香港に回航(4.2香港着) |
昭和20年 4月 4日 | 香港~門司間にて、ホモ〇三船団護衛任務(4.5輸送船全滅) |
昭和20年 4月 6日 | 門司へ航行中、米軍機の爆撃により大破 |
昭和20年 4月 7日 | 廈門付近の海岸に漂着 |
昭和20年 4月10日 | 自沈 |
1998.02.10改訂
2007.11.18改訂