藤波 【Fujinami】

夕雲型 11番艦

夕雲型:「夕雲」竣工時

解説

「藤波」は、第四次艦艇軍備充実計画において「夕雲型」駆逐艦の11番艦として「第127号艦」の名で計画され、昭和18年7月末に株式会社・藤永田造船所にて竣工しました。
ガダルカナル島に端を発したソロモン諸島の激戦は、この頃は舞台を中部ソロモンに移し、コロンバンガラ島を始めとする島嶼部に対する輸送作戦の真っ只中でした。
海軍に正式に引き渡され藤永田造船所を発した「藤波」は、訓練部隊である第十一水雷戦隊に編入、これに合同すべく呉方面へと向かいます。
十一水戦に合流した「藤波」は、呉において色々な武器・物資を受領すると、早速訓練を開始します。
8月17日には同じく十一水戦で練成中の「夕雲型」姉妹「早波」「涼波」と共に、「」に率いられて豊後水道の対潜掃蕩を行なうなどしています。
8月20日には、その「早波」「涼波」と共に第三十二駆逐隊を編成します。

そしてこの三十二駆は、訓練もまだ出来ていないのにも拘わらず、横須賀まで仕事に駆り出されました。
戦艦「山城」を瀬戸内まで護衛して来るという任務でしたが、これは何事もなく達成します。
「藤波」はこの後も護衛や救難任務に明け暮れることになりますが、この「山城」護衛任務がその最初でした。
瀬戸内に戻った「藤波」たちは、再び射撃や発射訓練を続けます。
9月13日、「藤波」は呉鎮守府から種子島南東で敵潜に襲われ航行不能になった「津山丸」の曳航救助を頼まれます。
もっとも「藤波」が現場に到着してみると海面が荒れていて曳航が出来ず、「藤波」は仕方なく呉鎮部隊に後を託して現場から引き返しています。

この後9月30日、三十二駆は第二水雷戦隊に編入されました。
ようやく訓練を終え、南方の前線で戦う実戦部隊に配属されたのです。
もっとも南方へ向かう船はついでに物資輸送を兼ねることが通例でした。
彼女たちも進出ついでに、十一水戦の指揮下でもう一仕事することになります。
陸軍甲支隊(第五十二師団の一部)のポナペへの輸送、丁三号輸送作戦です。
陸兵や機材は戦艦「山城」「伊勢」、空母「隼鷹」「雲鷹」に搭載し、これを十一水戦の「龍田」と三十二駆の「早波」「涼波」「藤波」で護衛、宇品を発しトラックに到着します。
トラックに無事にたどり着くと、「藤波」は「伊勢」から陸兵や物件を積み替え、甲支隊の最終目的地であるポナペまで送り届けました。
こうして丁三号輸送を無事に終えた三十二駆は、10月28日、栗田中将の率いる遊撃部隊に編入されます。
彼女たちはいよいよ戦地へ赴くのです。

栗田中将の率いる遊撃部隊は、第二艦隊と第三艦隊の重巡7隻を基幹とする高速打撃部隊でした。
11月3日、遊撃部隊はトラックを出撃、ラバウルへ向かいます。
ブーゲンビル島タロキナへの米軍上陸に対し反撃するためです。
「藤波」たち三十二駆は第二水雷戦隊旗艦・軽巡「能代」に従いこれを直衛します。
また姉妹艦の「玉波」は10月1日に三十二駆に編入されていましたが、ずっと単艦行動していた彼女もようやく合流し、これが三十二駆初めての全力行動となりました。
途中空襲を受けた「日章丸」を救援に向かった「鳥海」「涼波」を除き、11月5日早朝、ラバウル着。
湾内は第八艦隊の既存艦艇と栗田艦隊とで混雑状態でした。
そこへ空襲警報が発報されたのです。
シャーマン少将率いる空母「サラトガ」と「プリンストン」を発した約100機の攻撃隊でした。
実に1年ぶりにソロモン方面に米空母が出現したのです。

ラバウル航空隊と「ろ」号作戦のためにちょうど進出していた第一航空戦隊機による邀撃戦が始まりますが、敵機を阻止しきれず、やがてラバウル港内の各艦艇はその雷爆撃にさらされます。
不意を衝かれたとは言え、ラバウルを根城に長い間戦っている第八艦隊の艦艇はすぐさま錨を揚げ、回避運動を開始します。
一方、栗田艦隊は前線基地に慣れておらず、ほとんどが停泊中のまま敵襲を受けることとなってしまいました。
この結果、主力の重巡6隻中5隻が損傷したのを始め、損害は甚大になりました。
しかし不幸中の幸いであったのは、アベンジャー雷撃機が抱えてきた航空魚雷の精度が極めて劣悪だったことです。
「藤波」はその不幸中の幸いが最も大きく働いた艦でした。
対空射撃を行なう「藤波」に対し、アベンジャーの放った魚雷が迫ったのです。
回避のしようもなく魚雷は「藤波」の右舷中部に命中してしまいました。
ところが魚雷は不発、「藤波」は重油タンクに穴を開けられただけの損害で済んだのです。
このような例は他にも見られ、確かに損傷艦は多かったものの、被雷による被害は結局「藤波」の不発魚雷1に止まっています。

米空母機の空襲が終わると間髪を入れず米陸軍機の空襲が始まりました。
米陸軍機の目標は陸上施設にあったようで、混乱を極める在泊艦艇の被害の拡大はありませんでした。
米空母機来襲から1時間半の空襲は終わりましたが、ラバウルは損傷した巡洋艦の噴き上げる黒煙に覆われていたと言います。
そしてこの奇襲により戦力を半減以下にされた栗田艦隊は、可動重巡をトラックに避難させることにしたのです。
「藤波」たち三十二駆のうち「涼波」がこの護衛を命ぜられ、ラバウルを後にしています。
ラバウルに残ったのは行動不能の重巡「摩耶」と二水隊、三水戦、十戦隊の軽艦艇ばかりでした。
しかしラバウルの目と鼻の先にあるタロキナでは米軍との陸上戦闘が続いており、ラバウルの第八艦隊では逆上陸作戦を計画していました。
頼みの重巡戦隊はトラックに引き返してしまいましたが、残る水雷戦隊による反攻が企図されたのです。

「藤波」は5日受けた不発魚雷によって幅2センチ長さ12センチの亀裂を生じ、重油が漏洩してしまうという損傷を受け、艦内工作による応急修理が試みられていました。
当初は彼女もこの逆上陸作戦に参加する予定だったのです。
しかし残念ながら自艦による修理は不可能と判定され、遂に逆上陸作戦に置いていかれることになってしまいました。
この逆上陸作戦は、三水戦の「天霧」「文月」「卯月」「夕凪」が第十七師団の陸兵一個大隊の輸送を担当、これを二水戦の「大波」「巻波」が直衛、更にそれを十戦隊「阿賀野」を旗艦に、「若月」「風雲」「浦風」、二水戦旗艦「能代」「早波」「長波」が支援するという形で、敵艦隊と近接しながらでしたが無事に揚陸を果たしています。

ラバウル在泊の部隊は連日の空襲下、次の作戦のために待機していましたが、陸軍機の空襲が主体であったために被害がありませんでした。
ところが11日早朝に発報された空襲警報は違いました。
再び米空母機が大挙して来襲してきたのです。
今度はシャーマン部隊だけでなくモントゴメリー少将率いる「エセックス」「バンカーヒル」「インディペンデンス」が加わり、前回の5日を上回る約200機規模の空襲となったのです。
先に敵艦隊を発見しており完全な奇襲でなかったにせよ、前回のように大型艦が在泊していないラバウルでは、必然的に軽巡や駆逐艦などの小型艦艇が主たる攻撃対象となりました。
「藤波」は幸い被害を受けずに済んだものの、反復される攻撃の結果、「藤波」の僚艦「涼波」が被雷沈没、「阿賀野」が被雷大破、「長波」も被爆大破、その他「能代」なども機銃掃射や至近弾で損傷を受けてしまったのです。

米空母機の空襲後も引続き米陸軍機による反復攻撃がありましたが、その空襲の合間に「藤波」と「早波」は「能代」と共にラバウルを脱出します。
辛うじて動けるようになった「摩耶」、潜水母艦「長鯨」、「五月雨」たち損傷艦を援護しての脱出でした。
脱出艦隊は12日の深夜に米陸軍機の追撃を受けましたが被害はなく、順調にトラックへの航海を続けます。
ところが翌日、「能代」と三十二駆の「早波」「藤波」に対して、「摩耶」護衛の打ち切りと「阿賀野」護衛に就けという命令が下ります。
「摩耶」隊に先んじてラバウルを脱出していた「阿賀野」が、トラックに向かう途中で米潜に雷撃されて航行不能に陥っていたのです。
「阿賀野」を護衛していた「浦風」「涼月」「初月」では曳航が出来ないため、急遽同型艦である「能代」が呼び出されたわけです。
「能代」と「早波」「藤波」は13日に「阿賀野」に合流、「能代」による曳航を開始しますが、曳航索が切れてしまいうまく行きませんでした。
やがてトラックから応援の「長良」が到着、「長良」の曳航は成功し、脱出艦隊は15日にトラックに入港することが出来たのです。

トラックに到着した「藤波」はしばしの休養を取ります。
それもつかの間、11月13日から開始されていたタラワ、マキン方面への米軍機による爆撃は、19日、米機動部隊出現という新たな段階に突入したのです。
これはスプルーアンス提督の率いる第五艦隊でした。
空母機動部隊の再編成った米海軍は、いよいよ中部太平洋方面から遂に本格的な反攻を開始したのです。
ガルバニックと名付けられた作戦に従って21日、第二海兵師団がタラワへ、陸軍第二十七歩兵師団がマキンへ、それぞれ上陸を開始、現地の日本守備隊との間で激戦が展開されます。
中部太平洋方面の守備を統括する第四艦隊司令部は、米軍上陸の報を受けると直ちに反撃の意志を見せます。
「藤波」たちが以前輸送を助け、今はポナペに展開している海上機動兵団・陸軍甲支隊2000名強を十四戦隊「那珂」「五十鈴」と「長良」に乗せ、タラワに対して逆上陸作戦を展開しようとしたのです。
「那珂」たちは陸兵を乗せると26日までにクェゼリンに進出、これに呼応してトラックに在泊していた栗田中将の第二艦隊も錨を上げます。
旗艦「鳥海」以下、「鈴谷」「熊野」「筑摩」を基幹とする遊撃部隊は、24日トラック発、26日にはクェゼリンに到着。
「藤波」たち三十二駆も「能代」に率いられてこれに従っていました。

ところが栗田艦隊がクェゼリンに到着する前日の25日、タラワ守備隊から訣別電が発せられたのです。
これを受けた連合艦隊ではタラワ島増援作戦を中止せざるを得ませんでした。
作戦は中止になったものの、第四艦隊は集結させた兵力をすぐには撤収させずに、その一部を海上機動兵団の兵力再配置のための輸送に転用することにしました。
「藤波」と「早波」たち三十二駆はこれに協力することになり栗田艦隊より分派、クェゼリンで陸兵を受け入れるとヤルートのイミエジに向かい揚陸します。
今度はイミエジで物資を受け取るとウォッゼへ陸揚げし、栗田艦隊の警泊しているルオットに向かいます。
ルオットでは755空の基地要員を収容、12月3日、栗田艦隊と共にトラックへ向けて出発しますが途中分離し7日サイパンに到着、輸送を終えました。

サイパンに到着した「藤波」は、「總洋丸」遭難の報に接し12月8日サイパンを出発、救難行動を行ないます。
12月19日再びサイパン発、横須賀からトラックへ向かう途中故障で船団から落伍していた「筥崎丸」を護衛し、トラックまで護送します。
トラックでは、戊号輸送部隊に加入することになります。
戊号輸送作戦は独立混成第一連隊を内地からカビエンに緊急輸送する作戦で、第一号から第三号までが存在しました。
「藤波」が加入したのは、「妙高」「羽黒」「利根」「白露」から成る戊二号輸送部隊でした。

「藤波」は内地からやって来る「妙高」たちを出迎えると、昭和19年1月2日トラックを後にします。
そして4日にはカビエンに到着し、順調に揚塔作業を終え、その日の内に早くもカビエンを引揚げました。
「藤波」たち戊二号輸送部隊はこうして損害を受けることなくトラックへ帰り着くことが出来たのですが、実はカビエンを出港した直後に、戊号輸送作戦を嗅ぎつけていた米空母機動部隊が攻撃隊を放っていたのです。
戊号輸送作戦は米軍の探知するところとなっており、戊二号輸送部隊のカビエン入港もまた米軍の知るところだったのです。
「藤波」たちを狙ったのは、ラバウル空襲の時と同じシャーマン少将の部隊でした。
ですが、シャーマン部隊の攻撃隊は一足違いで戊二号輸送部隊をつかまえ損ねてしまいました。
その差は1時間半程度であったので、まさに間一髪と言うところでした。
その代わりに彼らは、戊号輸送部隊支援として対潜掃蕩任務に就いていた「皐月」「文月」の二隻を発見し、これを攻撃しています。
1月5日にトラックに帰った「藤波」はしばらくトラックで休むと、10日、「朝雲」と共に「大和」を護衛して内地へと出発しました。
「大和」は、戊号輸送作戦で内地からトラックまでの輸送任務中の前年12月25日、米潜の雷撃を受け、損傷していました。
その損傷箇所を修理しに帰るところだったのです。
「大和」「藤波」「朝雲」は、途中米潜に発見されはしましたがこれを振り切ることに成功し、1月15日に呉に到着することができたのです。

久々に内地に戻った「藤波」は呉のドックに入渠、修理や補修整備を受けました。
整備を終えた「藤波」は休む間もなく船団護衛任務を命ぜられます。
1月30日「藤波」は洲本へ向かうと、横須賀まで八三〇乙船団の護衛に就き、2月4日からは横須賀発の三二〇六船団の護衛任務に就いています。
船団の編成は「暁天丸」「辰羽丸」「瑞海丸」「隆興丸」「新京丸」の輸送船5隻、第五十二師団の兵員約9000とその物資を乗船させていました。
これを「藤波」と敷設艦「夏島」、海防艦「天草」、「第三十一号駆潜艇」によって護衛、目的地はトラック。
順調な道程を消化していた2月14日、「藤波」たち三二〇六船団は前方からやって来た戦艦「武蔵」を中核とする6隻の艦隊とすれ違います。
その中には三十二駆の僚艦「玉波」の姿もありました。
彼女たちは内地に向かって航行中であり、その旨が船団に伝えられたと言います。
三二〇六船団は目的地トラックに航進を続けます。
そして17日、トラックまであと一日足らずという海域まで到達した時、「暁天丸」が被雷します。米潜の仕業でした。
「暁天丸」は1時間も経たずに沈没、「藤波」や「天草」「新京丸」は生存者の救助に当たりました。
船団は二手に分離、「隆興丸」「新京丸」はサイパンに引き返していきますが、「辰羽丸」「瑞海丸」はそのままトラックへ向けて全速で逃げ込むことにしたのです。
そして「藤波」は、後者2隻の生存者を拾って歩くことになってしまいます。

この日、2月17日は、あのトラック大空襲の第一日目に当たっていました。
三二〇六船団はよりによって最悪のタイミングでトラックに近づいていたのです。
「辰羽丸」「瑞海丸」はトラック環礁のすぐ手前まで来た時に米空母機に捉えられ、銃爆撃の洗礼を受け、たちまちにして沈没してしまいました。
空母9隻を中心とする米艦隊によるトラックへの攻撃は17日、18日の両日にわたって繰り返され、日本側は船舶31隻、艦艇11隻、航空機270機あまりを喪失するという大損害を被ります。
この喪失船舶の中には前述の「暁天丸」の喪失は含まれておらず、これを含めると喪失船舶数は32隻になります。
沈没船の救助をしていた「藤波」は18日、空襲が終わった後にトラックへと入港します。
「藤波」乗組員たちや救助された遭難者たちの目に映るトラック環礁は、全く惨憺たる状況だったことでしょう。
なお3月4日に至り、再びサイパンよりトラックに向かっていた「新京丸」も潜水艦により撃沈され、三二〇六船団のA船(陸軍徴傭船)3隻はここに全滅の憂き目を見る結果となります。
この船団に乗船していた第五十二師団の将兵は極めて甚大な損害を被ってしまいました。
9000名のうち救助されたのはわずかに1800名あまりに過ぎず、約7000名が戦死したとなっています。

トラックに入港した「藤波」は、「秋風」と共に20日、空襲で損傷した工作艦「明石」を護衛してパラオに向けて出港します。
24日、「藤波」たちはパラオに無事に到着しました。
パラオには空襲前にトラックから避難していた「愛宕」「鳥海」など第二艦隊の重巡や、空襲下を逃げ延びた「春雨」「時雨」などが投錨していました。
29日になると内地より陸兵や物資を満載した「武蔵」が到着します。
パラオはトラック壊滅後の連合艦隊前進根拠地となっており、艦艇や増援兵員が次々と到着していました。
翌3月1日、「藤波」は「早波」と共に、第二十九師団を輸送中に米潜に撃沈された「崎戸丸」の救援任務に赴き、そのままサイパンに入港します。
そして今度も「藤波」と「早波」とで油槽船「国洋丸」を護衛、サイパンからパラオへ移動しました。
その後「藤波」はしばらくの間パラオにて対潜掃蕩などを行なっています。

しかし連合艦隊の特信班によって敵機動部隊によるパラオ攻撃が予期されるに至ります。
と同時に、この米機動部隊には上陸部隊が付属していないことも指摘されたため、古賀連合艦隊長官は旗艦「武蔵」を下り、パラオに将旗を移します。
パラオを拠点に敵機動部隊を叩き、残敵を在パラオ艦隊で一掃するつもりだったようです。
3月29日、「武蔵」「愛宕」「高雄」「鳥海」を中心とする艦隊は栗田中将に率いられてパラオを一時脱出することとなり、「藤波」は「春雨」「白露」「満潮」「浦風」「磯風」「谷風」「浜風」と共にこれを護衛します。
ところが出港直後、「武蔵」が米潜から雷撃され、魚雷1本が命中してしまいます。
もちろん大した損傷ではなかったのですがそれでも修理する必要があるので、「武蔵」は内地に送り返されることになりました。
「藤波」は「白露」「満潮」と共に「武蔵」を護衛、4月2日に呉に入港しました。
栗田艦隊は、31日の古賀長官の命によりダバオに向かっています。

一方パラオは連合艦隊特信班の分析が的中し、3月30日と31日にかけてスプルーアンス艦隊に強襲されることとなりました。
この結果、トラックの時と同様に残されていた商船隊が壊滅的な打撃を受けてしまったのです。
船舶21隻、艦艇は7隻が犠牲となり、中でもトラックでの空襲を一度は生き延びた工作艦「明石」、またたまたま集結中だった給油艦・油槽船合計6隻の喪失はあまりにも大きく、その後の連合艦隊の作戦に大きな支障を生ずる原因となりました。
更に通信諜報によって米機動部隊によるパラオ攻撃を的中した情報士官の上陸はないという断言にも拘わらず、その徹底した攻撃ぶりに敵上陸の可能性を感じた古賀長官は、空襲後に二式大艇によってダバオへ移動しようと試み荒天に遭遇、そのまま乗機と共に行方不明となってしまいます。
この際二番機も遭難し、マリアナ防衛計画の記された機密書類がゲリラの手に落ちるという失態につながっていったのも、今日広く知られています。

呉に戻った「藤波」は補給整備を終えると、輸送船団の護衛に就くことになりました。
竹船団と特に命名されたこの輸送船団は商船16隻を擁する大船団で、第三十二師団をダバオへ、第三十五師団を西北部ニューギニアへ、それぞれ一気に輸送しようとする構想でした。
これを護衛するのは、敷設艦「白鷹」を旗艦に、駆逐艦「藤波」「朝風」「白露」、海防艦「倉橋」「第20号」「第22号」、掃海艇「第22号」、駆潜艇「第37号」「第38号」、砲艦「宇治」「安宅」、「第七玉丸」の合計13隻という布陣でした。
船団は上海沖の泗礁山に集結し、4月21日マニラに向け出港します。
途中、航洋能力のない砲艦が護衛より抜け、代わりに駆逐艦「」と「第101号掃海艇」が加入します。
船団は無事にルソン島沖にまでやって来ますが、26日遂に米潜に捕まり、歩兵第二百十連隊の乗る「第一吉田丸」が雷撃を受け撃沈されてしまいます。
これにより2000名以上の戦死者を出してしまいますが、その他の船団は27日、何とかマニラに到着することが出来ました。

マニラに到着した船団は再編成し、5月1日、目的地を変じてハルマヘラ島のワシレに向けて出港します。
船団は商船9隻、護衛は敷設艦「白鷹」「蒼鷹」、駆逐艦「藤波」「白露」「五月雨」(途中合流)、駆潜艇「第37号」「第38号」の7隻という構成でした。
しかしこの船団の行く手もまた暗雲が立ちこめていたのです。
スールー海を通り過ぎ、セレベス海に踏み込む船団を一隻の米潜の待ち伏せを受けていました。
「亜丁丸」「但馬丸」「天津山丸」の3隻の輸送船が次々と被雷。
それぞれ2本、2本、1本と被雷したらしく、「亜丁丸」は轟沈、「但馬丸」「天津山丸」も相次いで沈みました。
「藤波」たち護衛艦は敵潜に対して為す術がありませんでした。
周囲の海面には多数の陸軍兵が漂流、軍歌を合唱しながら救助を待っています。
各艦は短艇を下ろし救援に奔走、沈没船3隻合計で6000名あまりの漂流者を拾い集めたのです。
特に船体の大きな駆逐艦は普通では考えられないほどの人数の兵員を拾ったため、復原性に不安を感じるほどの状況だったようです。
陸軍兵は「第一吉田丸」での遭難を教訓に、徹底した遭難対策を施しており、遭難者に対する海没者の割合が低かったのが不幸中の幸いでした。
残りの船団は何とかセレベス島のバンカ泊地に避難し、8日に再出港、9日にワシレに到着することが出来ました。
人的損害は壊滅的ではなかったものの、物的な損害は大きく、この輸送作戦の失敗はオーストラリア方面に対する備えに重大な影響を与えたと言われています。

さて「藤波」は「白露」「五月雨」と共に5月11日ワシレを出港、バリクパパンに回航します。
バリクパパンから「藤波」は「白露」とペアを組み、5月15日から18日までの間、油槽船「栄邦丸」「興川丸」「万栄丸」をタウイタウイまで護衛します。
タウイタウイ泊地には、新鋭空母「大鳳」や歴戦の「翔鶴」「瑞鶴」を始め空母9、「大和」「武蔵」など戦艦5といった小沢機動部隊こと第一機動艦隊の決戦戦力がずらりと揃い、投錨していました。
「藤波」たちが護衛してきた3隻は、これら小沢機動部隊の補給を担う、重要なタンカー部隊の一部でした。
そして「藤波」もまた第二水雷戦隊の一員として小沢機動部隊の一翼を担い、近く予想される決戦に参加することになったのです。
しかし小沢機動部隊に所属する駆逐艦の数は、中核艦艇に対してあまりにも少ないものでした。
機動部隊所属の駆逐艦は、空母部隊の出動訓練の際のトンボ釣りや、タラカンへ油を取りに行くタンカーの護衛の傍ら、タウイタウイ泊地周辺の対潜哨戒も行なう必要もあり、多忙な毎日になりました。
「藤波」もまたタウイタウイ入泊以来、何度か対潜哨戒の任務に就きます。
しかし6月7日、三十二駆の司令駆逐艦「早波」が哨戒に出た際、米潜の逆襲に遭って撃沈されてしまいます。
「藤波」は「早波」遭難の報を受けるとこの救援に出港しますが、生存者は航海長以下45名と少なく、艦長と第三十二駆逐隊司令をも失ってしまいました。
この後、「玉波」艦長が三十二駆司令に着任することになりましたが、新司令は司令駆逐艦に「藤波」を指定したと思われます。
この事件のように、対潜哨戒の駆逐艦が米潜の反撃に遭った例は他にも認められ、タウイタウイに待機する機動部隊の母艦搭乗員の飛行技量は日に日に低下、小沢機動部隊司令部は深く憂慮していたと言います。

こうした苦い経過をたどりながら、6月13日、小沢機動部隊はタウイタウイ泊地を発しギマラスへと転じます。
米潜による妨害を避け飛行訓練が可能な地を求めての移動でしたが、先立つこと6月11日には米機動部隊がマリアナ方面への空襲を開始していました。
そして13日当日、サイパン、テニアンに対する艦砲射撃を開始、それまで状況判断に迷っていた連合艦隊司令部も米軍のマリアナ方面への上陸の企図を認め、遂に「あ号作戦決戦用意」を発令するに至ります。
この時点で小沢機動部隊は二水戦などの一部を以て、米陸軍のビアク島進攻に対応した渾作戦を展開中でしたが急遽これを中止、小沢機動部隊への合同を命じます。
「藤波」も二水戦所属でしたが渾部隊には参加せず、前述の通り小沢機動部隊と共にありました。
小沢機動部隊は14日、ギマラスに入港、急いで補給を進めます。
翌15日、「あ」号作戦決戦発動。
小沢機動部隊は抜錨、ギマラスを後にします。

16日、分離していた渾部隊が小沢機動部隊前衛に合流、小沢機動部隊は決戦兵力の全力を揃え終わりました。
小沢機動部隊の前衛は、三航戦「千歳」「千代田」「瑞鳳」を軸に、水上打撃部隊である「大和」「武蔵」など一戦隊、三戦隊の戦艦4、四戦隊、七戦隊の重巡8、そして「能代」以下の二水戦、軽巡1、駆逐7より構成されていました。
「藤波」は二水戦の一員として、前衛の一角を成しています。
17日には補給を済まし、18日に慎重に索敵を進めた小沢機動部隊は、19日に本格的な航空戦を挑みました。
前衛の第二艦隊より黎明から零式水偵が索敵機として飛び立ち、次いで同じく前衛の三航戦から九七艦攻や零式水偵が敵を求めて放たれます。
首尾良く米機動部隊を発見した小沢機動部隊は、麾下の9隻の空母から第一次攻撃隊だけで243機という大攻撃隊を向かわせたのです。

この第一次攻撃隊の進撃の際に事件が発生します。
甲部隊(一航戦基幹)から発した第一次攻撃隊は、進路上にある前衛の頭上を横切る形となったのです。
記録が必ずしも全て残っているわけではないので兵力部署が全く明らかにされているわけではありませんが、「藤波」は前衛の第十一群と呼ばれるグループ、「瑞鳳」「大和」と七戦隊の重巡4、駆逐3より成る一群に所属していたようです。
(あるいは「千代田」を基幹とする第十二群にあった可能性もありますが、はっきりしません。ここでは第十一群所属としておきます)
一航戦攻撃隊はこの第十一群に向かってやって来たのです。
敵味方不明の大編隊に接近された第十一群は緊張に包まれ、やがて一部の艦が対空射撃を開始してしまいました。
この誤射により、2機が不時着したと言われ、8機が引き返し更に編隊が混乱、後の進撃及び襲撃に問題を生じたとも言われています。
しかしそのような損害は無視し得るほど、小沢機動部隊の放った第一次攻撃隊の帰投機は少なく、喪失した機数は75%程度と甚大でした。
数少ない帰投機も長距離を翔破した疲労や激戦による損傷が甚だしく、本隊よりも手近な前衛の空母を発見するとそちらに着艦しようとする機体が多かったようです。
そんな中、「藤波」に1機の零戦が近づき、着水救助を依頼する報告球を落としていきます。
それは「翔鶴」の零戦でしたが、「藤波」はその依頼を快く受け入れます。
「藤波」は不時着水した零戦搭乗員を短艇で直ちに救助、搭乗員の為に駆逐艦では貴重な風呂を焚いたというエピソードが残っています。
旗艦「大鳳」の被雷喪失や多数の未帰還機などから、小沢司令部では戦況の把握に困難を極めましたが、攻撃隊の多数がサイパンなどの基地に着陸したと判断し、戦力を整理した上で22日頃再度航空決戦に臨む決意を見せます。

翌20日、小沢機動部隊は午前中の索敵を行ないますが米機動部隊を発見できず、その為米機動部隊との距離が相当あるものと判断して、補給部隊を合同の上補給を開始します。
ところが昼頃、基地航空隊の索敵により比較的近距離に敵機動部隊を発見、急遽補給を打ち切り、北西方に向けて退避を開始します。
米機動部隊の追撃は、午後の小沢機動部隊による索敵によっても明らかとなり、米機動部隊による空襲は時間の問題と判断されました。
やがて夕刻になり、遂に米攻撃隊が姿を現しました。
米攻撃隊は隻数の多い前衛にはあまり攻撃をしかけず、第十二群(「千代田」基幹)を若干攻撃します。
「大和」は副砲を以てこれと交戦したようですが、「藤波」たち駆逐艦はどのように交戦したかつまびらかではありません。
この空襲により小沢機動部隊では「飛鷹」が沈没し、「瑞鶴」「隼鷹」「千代田」などが損傷を受けてしまいました。

空襲後、既に発令されていた夜戦命令に従い第二艦隊を基幹とした遊撃部隊が集結、栗田中将に従って敵方に向かって進撃を開始します。
遊撃部隊には二水戦も参加していましたが、「藤波」は三航戦の直衛に就いており、夜戦には参加していない模様です。
やがて19時45分、連合艦隊司令部より小沢機動部隊に対して離脱命令が下ります。
この命令に従って小沢機動部隊は高速で戦場を去り、6月22日、沖縄の中城湾に入泊しました。
日本海軍史上最大の空母決戦は、遂にその目的を達することなく終焉を見たのです。

マリアナ沖海戦の敗戦によりマリアナ諸島を失陥、絶対国防圏に大穴を穿たれた形になった日本は、次の防衛ラインを固めるべくすぐさま行動する必要に迫られました。
しかしマリアナの戦闘で失った戦力はあまりにも大きく、特に母艦航空戦力が文字通り壊滅してしまった日本艦隊には、もはや米機動部隊と対等に戦う術が見出せませんでした。
暗中模索の中、小沢機動部隊に随伴していたタンカー船団は、シンガポールから内地への石油還送任務に従事することを命じられます。
その一環として、「藤波」は三十二駆の僚艦「玉波」と共に油槽船「旭東丸」の護衛任務に就きます。
6月23日に中城湾を出港、29日にシンガポールに到着、今度は復航としてシンガポールから再びマニラに向かいます。
しかし7月7日、ルバング島西方に差し掛かったとき、「玉波」が米潜の雷撃を受けてしまったのです。
轟沈に近かったようで、「玉波」の生存者はありませんでした。
「藤波」の報告には、「現場急行捜索ニ向フモ何物モ認メズ」とあります。
そのまま「藤波」は「旭東丸」の護衛を続け、9日マニラ入港を経て、17日に呉に到着します。

内地に戻った「藤波」ですが、原隊の二水戦は遊撃部隊と共に南下、リンガ泊地に向かっていました。
次期作戦に備えての訓練が目的ですが、これは内地では既に燃料が逼迫の度を増しており、大艦隊が訓練に費やす燃料が賄えないことを意味していました。
「藤波」も二水戦に合流しなくてはなりませんでしたが、「旭東丸」が再びシンガポールへ赴くことになり、この護衛に任ずることになります。
ちょうどその頃、その他のタンカー船団もシンガポールへ石油を積込みに行くことになり、更に比島防衛用の兵力輸送を行なう輸送船団を準備中であったため、これらを統合して大船団を組むこととなりました。
船団名は「ヒ71」と付けられ、商船・タンカーの数は合計で20隻にも上り、それを護衛する兵力も空母「大鷹」を投入、駆逐艦は「藤波」の他に「夕凪」、海防艦「平戸」「倉橋」「御蔵」「昭南」「第11号」が付けられるという徹底ぶりでした。
「藤波」にとって、何度めかの大規模船団の護衛任務でした。
マリアナ失陥後の次の目標はフィリピンであると判断した大本営は、フィリピンへの兵力輸送に奔走していました。
ヒ71船団に乗船していた第二十六師団は華北にあった部隊で、フィリピンへ転用しようというものでした。
この他、船団には航空関係者などが乗り込み、一気に防衛兵力を送り込もうとした重要船団であったことが伺えます。

「大鷹」に率いられたヒ71船団は8月8日門司を出港しますが荒天に悩まされ、「吉備津丸」が脱落反転、船団は同15日台湾の馬公へ入港します。
馬公では船団の再編成が行なわれ、19隻のうち「二洋丸」「第二八紘丸」「鴨緑丸」と給糧艦「伊良湖」の4隻が編成から外れ、第一海上護衛隊から駆逐艦「朝風」及び、対潜掃蕩の専門部隊である第三掃蕩小隊の海防艦「佐渡」「松輪」「日振」「択捉」が加えられました。
護衛に厚みを増したヒ71船団は、補給を終えると17日馬公を出港、18日には米潜出没地帯である「魔のバシー海峡」に足を踏み入れました。
しかし恐れていた通り早朝に米潜が出現、油槽船「永洋丸」が被雷してしまいました。
幸いにして沈没は免れたので「永洋丸」は「夕凪」の護衛を受けつつ台湾の高雄へと引き返していきました。残る船団は14隻。
米潜は「大鷹」が哨戒機を上げている昼間は行動を起しませんでしたが、日没を迎えると再び襲撃に移ったのです。
同じく18日22時半ごろ、その「大鷹」が真っ先に被雷、撃沈されてしまいました。
天候は雨。海上は時化。
視界は悪く、恐らく「藤波」たち護衛艦の哨戒能力は極度に限定されていたことでしょう。
そして「阿波丸」はこんな電文を発します。
「船団は敵潜群に包囲されつつあり」
船団はこの事態を迎え、各個に最大速力によるマニラ港への遁走を試みました。
もはや船団としての行動はなくなっていたようです。
逃げ惑う船団を米潜群は次々と雷撃していきました。
この結果、18日深夜から19日の明け方にかけ、輸送船「帝亜丸」「玉津丸」、給油艦「速吸」、油槽船「帝洋丸」が撃沈、輸送船「阿波丸」「能代丸」が損傷するという大損害を被ってしまったのです。
日本艦艇の対潜制圧能力が米潜に遠く及ばないことを改めて証明された瞬間でした。

虎口を逃れた船団は、集結しあるいは単独で、21日にマニラにたどり着きました。
しかし第二十六師団の損害は目を覆うばかりで師団としての戦力は全く喪失し、再編のやむなきに至りました。
「藤波」は19日は一日中遭難者の救助に従事していたようで、陸軍軍属2267名を救助したと記録に残っています。
「藤波」のマニラ入港は22日。
マニラで船団は再編成し直され、「旭東丸」「北海丸」「あずさ丸」「瑞鳳丸」の4隻に損害軽微だった「阿波丸」、新たに「旭邦丸」を加え合計6隻、護衛艦は「藤波」の他、海防艦「平戸」「倉橋」「御蔵」「第2号」、駆潜艇「第28号」の6隻が配されました。
船団は25日にマニラを出港しますが、27日、「旭邦丸」が故障により遅れ始めます。
「藤波」はこの警戒に残り、「旭邦丸」の修理完了を待ちました。
幸いにしてその日の内に「旭邦丸」の修理が終わったため、「藤波」と「旭邦丸」は直ちに船団に合同することができました。
その後はアクシデントもなく米潜の襲撃もなく、9月1日シンガポールに到着します。

9月の「藤波」の行動はつまびらかではありませんが、恐らく第一遊撃部隊の集結するリンガ泊地へ向かい、その大部と行動を共にしたものと思われます。
リンガ泊地における第一遊撃部隊の集中訓練は、至近にあるパレンバンの豊富な重油を背景に、来るべき決戦に向けて艦隊夜戦や電探射撃、船団攻撃方法の訓練などを徹底的に反復したもので、これにより第一遊撃部隊に所属する艦艇の練度は相当の向上を見たと評価されています。
一方、マリアナ諸島を陥落した米軍の新たな進攻は、日本側の予想通りフィリピン方面に対して指向されました。
9月初旬から中旬にかけて米機動部隊はフィリピン中南部を攻撃。
15日には米海兵隊がパラオのペリリュー島へ、米陸軍がハルマヘラ島の北部にあるモロタイ島に対して上陸を開始。
9月下旬には米機動部隊によるフィリピン北部への攻撃が行なわれます。
更に10月10日、補給を終え再出撃した米機動部隊は沖縄に対する空襲を行ない、更に12日から14日にかけてはB29の空襲と呼応し台湾を反復攻撃します。
日本側は懸命な索敵によってこの意図を看破、台湾において邀撃戦闘を交えると共に、台湾東方を遊弋中の米機動部隊に対して航空部隊による総攻撃を行ないます。
この結果10月12日から16日にかけて大海空戦が戦われ、これが台湾沖港空戦ですが、この顛末は改めて書く必要もないでしょう。
リンガにあった栗田艦隊は10・10空襲の報を受けて訓練を中止、16日には連合艦隊司令部より敵機動部隊との決戦のための出撃準備命令を受命します。
ところが翌17日レイテ湾口にあるスルアン島に対する米軍上陸が通報され、18日にはレイテ湾への敵舟艇の接近が報じられるに至り、連合艦隊司令部は「捷一号作戦発動」を発信しました。

17日に受けた連合艦隊からの進出命令により、第一遊撃部隊は18日にリンガを発ち20日にブルネイに到着します。
第一遊撃部隊の任務は、レイテ突入、米上陸軍輸送船団の撃滅にありました。
実はこの時、栗田艦隊はレイテ突入までの燃料を持っていませんでした。
栗田艦隊の燃料を賄う予定のタンカーはブルネイに回航途上だったのです。
連合艦隊より示されたレイテ突入期日は25日であり、その為には22日にブルネイを出撃しなくてはならない計算でした。
その為第一遊撃部隊の各艦はタンカー到着後の補給所要時間を極力縮めるべく、巡洋、駆逐は戦艦の重油を移載して満載とし、タンカーは戦艦と重巡に補給すれば良いという状態にしておくことにしました。
「藤波」は他の二水戦各艦と共に「大和」から重油を補給して待機。
翌21日、待望のタンカー「八紘丸」「雄鳳丸」の2隻がブルネイに到着し補給を終えると、第一遊撃部隊主隊(栗田艦隊)は22日朝8時、ブルネイを出撃します。
栗田艦隊は、旗艦「愛宕」以下、戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐15、合計32隻より成り、第二艦隊司令長官・栗田中将直率の第一部隊19隻と、第三戦隊司令官・鈴木中将率いる第二部隊13隻とに分割していました。
「藤波」は三十二駆の司令駆逐艦「浜波」と共に、二水戦の一員として第一部隊に配備されています。
しかしブルネイからレイテまでの間、上陸部隊を守る米機動部隊の猛烈な空襲に曝されるのは必定であり、その道程は容易ならざるものと考えられていました。
航路には米潜が潜み、モロタイ島を基地とする米陸軍機の空襲にも注意を払わねばなりません。
栗田艦隊の、戦史上希に見る長く苦しい航海がここに始まったのです。

22日ブルネイを発した栗田艦隊は、諸般の事情から狭隘なパラワン水道を通過するルートを選択し、第一部隊、第二部隊共に各々5列の縦陣を成す対潜警戒航行序列で航行していました。
ですが23日の早朝、突如旗艦である「愛宕」が雷撃され、撃沈されてしまったのです。
「愛宕」に続き「高雄」「摩耶」も雷撃され、「摩耶」は沈没、「高雄」は大破航行不能となり落伍してしまいます。
「高雄」護衛のため「長波」「朝霜」が残され、第一部隊の勢力は14隻に減じます。
しかし栗田艦隊は進撃を中止することなく24日にはミンドロ島西岸に到達、朝には対空陣である輪形陣に陣形を改めてタブラス海峡に入ります。
ここからシブヤン海を抜けるまでの日中、敵機動部隊の空襲の反復が予想されました。
10時過ぎ、栗田艦隊の各艦は相次いで米攻撃隊の来襲を発見、対空戦闘の火蓋が切られました。
これから栗田艦隊は延べ約250機、五波に及ぶ空襲を受け、そして次々と損害を重ねていくことになります。
「藤波」も埒外ではなく、第五次の空襲において損傷しています。
第五次空襲は24日の一連の空襲の最後のものでしたが、中でも最も大規模で激しい空襲でした。
15時頃から開始された空襲は、第一部隊、第二部隊、そして落伍していた「武蔵」隊の全てが対象でした。
「藤波」は第一部隊にありましたが、この空襲の最中爆弾1発を右舷前方1番砲付近に直撃されたようです。
この被爆のため「藤波」は一番砲塔が破壊される損害を受けたようですが、依然として第一部隊の中にあり続けました。

15時から始まった第五次空襲が終わった時点で、栗田艦隊は甚大な損害を受けていました。
「武蔵」「妙高」が大破落伍、「大和」「長門」「利根」「清霜」「藤波」が被爆損傷、その他「矢矧」「浜風」など大多数の艦も、至近弾や機銃掃射により損傷を被っていました。
第五次空襲終了後、栗田長官はこれ以上の空襲には耐えられないと判断し一時的な避退を決心、15時30分に艦隊に対して反転を下令します。
落伍した「武蔵」護衛のために「利根」「島風」「清霜」が割かれ、ブルネイ出撃時19隻を数えた第一部隊は11隻、第二部隊も11隻に減勢となってしまいました。
しかし24日最大規模の空襲だった第五次空襲の終了後、米空母機による空襲は嘘のように途絶えてしまいました。
17時14分のことと伝えられていますが、栗田長官は再度反転を命令、レイテ進撃を再興します。
「武蔵」の側を通り過ぎる栗田艦隊は、損傷していた「浜風」を護衛に送り、「利根」と「島風」の復帰を命じています。
第一部隊12隻、第二部隊11隻。
栗田艦隊は寝静まったシブヤン海を抜け、一路太平洋への出口サンベルナルジノ海峡を目指します。
サンベルナルジノ海峡通過、25日零時半。
同海峡出口付近に待ち伏せていると思われた米機動部隊や米潜の姿は予想に反して全くなく、栗田艦隊はサマール島東岸をレイテ湾目指して南下していったのです。

25日の夜が明け6時45分、「大和」は水平線上に敵艦隊を発見します。
しかもそれは空母を含む機動部隊でした。
通常であれば影も形も見ることの出来ないはずの敵空母が、眼前に出現したのです。
この敵空母部隊は、タフィ3という護衛空母部隊でした。
「ファンショウ・ベイ」を旗艦とした護衛空母6、駆逐艦3、護衛駆逐艦4の小規模な低速任務群です。
しかし栗田艦隊は誰もがこれを正規空母から成る高速空母機動部隊であると信じ込んでいたのです。
栗田長官はすぐさま追撃を下令、敵機動部隊を風下側に追い込みつつ、戦艦と重巡による砲戦を挑みます。
米側では「サマール島沖海戦」と名付けられることになる追撃戦の開始でした。
その一方で二水戦と十戦隊の二隊の水雷戦隊に対しては、戦艦戦隊に後続せよと命じています。
これは、敵機動部隊の高速性からして射点につく困難性を見越し、またレイテ突入を控えて既に相当燃料を消費しつつあった駆逐艦の燃料節約を考慮した上での命令であると言われています。
そしてこれから1時間、二水戦は一戦隊の右を並行するように進撃します。

三戦隊の戦艦、五戦隊、七戦隊の重巡による追撃が功を奏して、タフィ3は次第に追いつめられていきました。
タフィ3は煙幕を吐きつつ逃げ惑い、手持ちの駆逐艦3隻に加えて護衛駆逐艦をも妨害に投入します。
この時「大和」は偶然にも、米駆の放った魚雷に左右から追いかけられるという態勢になってしまいました。
左右のどちらに舵を切っても魚雷に当たるため、魚雷を従えたまま敵空母から遠ざかる方向にひた走るという事態に追い込まれたのです。
視界から敵艦隊が消え海戦を把握できなくなった栗田長官は、麾下部隊に対し8時を以て「全軍突撃セヨ」を命じます。
この命令により、二水戦と十戦隊の水雷戦隊は、ようやく敵艦隊に向けて突撃することを許されたのです。
敵空母部隊に突撃を開始した二水戦は急激にその距離を縮めますが、一戦隊との距離を開けすぎることに迷いを感じて一度円を描くような行動をとりました。
その後再び敵空母部隊へ舵を切り、十戦隊と並行して進撃するような形になります。
二水戦の左には十戦隊が位置し、敵艦隊は左前方にあるという状況です。
タフィ3は左に重巡戦隊、右後方に水雷戦隊、後方に戦艦戦隊という対勢に追い込まれ、まさに絶体絶命でした。
ところが8時50分頃、米駆「ジョンストン」が魚雷を発射としたと誤認した十戦隊が面舵を切ったことから、二水戦は頭を押さえられるような形となり、同じく右に舵を切らざるを得なくなりました。
そしてそのまま270度ほど回頭、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」に対して砲戦を行ない、これを撃沈します。

二水戦はそのまま一戦隊の方角に向けて進み、やがて栗田長官が9時11分に発した「集マレ」を受信、交戦を終了しました。
結局二水戦は砲戦こそ交わしましたが、残念ながら雷撃の機会は逸してしまいました。
「藤波」の交戦状況については記録がありませんが、一番砲が使用不能であったらしいことから、砲撃戦には活躍出来なかったのではないかと推測します。

さて交戦が終了した後、栗田艦隊は艦隊集結のために北上を開始します。
その途中の10時6分、栗田長官は「藤波」に対して「鳥海」の救援を命じました。
「鳥海」は先の交戦では五戦隊「羽黒」と共に米空母を追撃していたのですが、8時51分頃に米駆の砲撃を受けたらしく落伍、その後米空母機の爆撃を受けて前部機械室を破壊され航行不能との報告を発していました。
分派された後の「藤波」の行動を伺える電文が一通だけ存在します。
11月25日4時、「藤波」は24日の21時48分「鳥海」の乗組員を収容してこれを魚雷により処分、コロン湾に向け航行中であることを報告して来ています。
この電文は二水戦の僚艦「清霜」の戦闘詳報に記録されており、そして日本側に残る「藤波」の最後の電文でした。
また「藤波」に対する命令は以後も発せられています。
27日1時15分に二水戦より、「藤波」「沖波」を「熊野」の護衛に充てる、という命令です。
この命令を「藤波」が受信したかどうか定かではありません。
25日4時の電文発信以後、「藤波」は行方不明となっています。
分派後の「藤波」の行動はどのようなものだったのでしょうか。

手がかりは2つあります。
一つは米側の記録です。
栗田艦隊はサマール島沖の追撃戦において護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦「ジョンストン」「ホエール」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」を撃沈していますが、その生存者たちが海上を漂流中、「鳥海」とその護衛艦の行動を見守っていたのです。
その護衛艦とは「藤波」以外に有り得ません。
特に「ガンビア・ベイ」生存者たちは戦後戦友会を結成、手記をまとめており、幸いにして和訳されているため日本語でもこれを読むことが出来ます。
彼らの証言によると、「鳥海」は一度は航行不能から立ち直り、運転を再開しています。
しかしすぐに米空母機の攻撃を受けて再び漂泊状態に陥ったということです。
この際に、「鳥海」「藤波」が対空砲火によってアベンジャー1機を撃墜したことが目撃されています。
「藤波」は動けない「鳥海」の周囲をぐるぐる回りながら警戒しており、これは恐らく「鳥海」の機関修理か排水作業の成功を待っていたのでしょう。
そして日没後、炎上している「鳥海」は放棄され、「藤波」は乗組員を収容するとモールス信号を明滅させながら去っていったそうです。
「鳥海」は雷撃処分後に水中爆発を起しており、漂流中の「ガンビア・ベイ」乗組員たちはその衝撃波を感じ取っていることが回想されています。
この描写は、「藤波」の25日4時の電文の内容と概ね合致しており、信用出来る証言であると考えられます。

「藤波」に関するもう一つの手がかり、それは彼女自身の最期の目撃証言でした。
「藤波」の最期を見届けたのは、二水戦の僚艦「早霜」の乗組員たちです。
早霜」は栗田艦隊と共に撤退していましたが、26日、タブラス海峡を抜けたセミララ島付近で再び敵機に捕まり被雷大破、セミララ湾に擱座していました。
その「早霜」乗組員たちを救助しに来てくれた駆逐艦が2隻いました。
最初の艦は27日の朝の「不知火」、そして午後にやって来たのが「藤波」だったのです。
しかし2隻の駆逐艦は、「早霜」乗組員たちの見ている前で米空母機に襲われ、撃沈されてしまいました。
早霜」乗組員たちの目撃した「藤波」の最期の様子は、数機の敵機と交戦中に命中弾を受け、黒い爆煙と火柱が立ち上ったというものでした。
記録によると「藤波」を撃沈したのは「エセックス」を発した攻撃隊でした。
船団護衛に損傷艦救援そして遭難者の救助に明け暮れ、シブヤン海の空襲とサマール島沖の戦闘を戦い抜いた「藤波」は、また僚艦の救援に向かおうとする途中、最後の最後で遂に力尽きたのです。
生存者、無し。
艦長・松崎辰治中佐以下230名の乗組員と、収容されていたはずの多数の「鳥海」乗組員、その全員が戦死。
セミララからコロン湾まではあとわずかの距離でした。

佐世保の東山にある佐世保海軍墓地に、平成10年に建立された真新しい慰霊碑があります。
その碑銘は他の慰霊碑とは少しだけ変わっています。
単艦か、あるいは隊を祀った慰霊碑が建ち並ぶ中、その慰霊碑だけは巡洋艦と駆逐艦の名前がそれぞれ1隻ずつ連名で、しかも同じ大きさで艦名が彫られているのです。
そこにはこう彫られています。
「鳥海 藤波 慰霊碑」と。

略歴
昭和17年 8月25日 藤永田造船所にて起工
昭和18年 3月 5日 命名
昭和18年 4月20日 進水
昭和18年 7月31日 竣工
第1艦隊第11水雷戦隊に編入
昭和18年 8月13日~ 訓練
昭和18年 8月20日 第32駆逐隊に編入
昭和18年 8月21日~ 徳山発、横須賀回航(8月22日横須賀着)
昭和18年 8月26日~ 東京湾外~柱島にて「山城」護衛任務(8月28日柱島着)
昭和18年 9月13日~ 柱島発、「津山丸」救難任務(9月13日呉着)
昭和18年 9月17日~ 呉発、柱島回航。諸訓練に従事
昭和18年 9月26日~ 柱島発、呉回航。出撃準備
昭和18年 9月30日 第32駆逐隊、第2艦隊・第2水雷戦隊に編入
昭和18年10月12日 呉発、宇品回航。宇品にて人員物件搭載
昭和18年10月13日 宇品発、佐伯回航
昭和18年10月15日~ 佐伯~トラックにて輸送任務(10月20日トラック着)
(丁三号輸送作戦)
昭和18年10月22日~ トラック~ポナペにて輸送任務(10月23日ポナペ着)
昭和18年10月23日~ ポナペ発、トラック回航(10月24日トラック着)
昭和18年11月 3日~ トラック発、ラバウル回航(11月5日ラバウル着)
昭和18年11月 5日 ラバウル港内にてラバウル大空襲に遭遇、対空戦闘
ラバウル港内にて空襲により被雷(不発)、小破
昭和18年11月11日~ ラバウル発、トラック回航(11月15日トラック着)
昭和18年11月15日~ トラック~クェゼリンにて輸送任務(11月26日クェゼリン着)
昭和18年11月30日~ クェゼリン~イミエヂにて輸送任務(11月30日イミエヂ着)
昭和18年12月 1日~ イミエヂ~ウォッゼにて輸送任務(12月1日ウォッゼ着)
昭和18年12月 2日~ ウォッゼ発、ルオット回航(12月2日ルオット着)
昭和18年12月 3日~ ルオット~サイパンにて輸送任務(12月7日サイパン着)
昭和18年12月 7日~ サイパン発、「總洋丸」救難任務(12月10日サイパン着)
昭和18年12月19日~ サイパン~トラックにて「筥崎丸」護衛任務(12月24日トラック着)
昭和18年12月27日~ トラック発、戊号輸送作戦支援に従事(12月29日トラック着)
昭和19年 1月 2日~ トラック~カビエンにて輸送任務(1月4日カビエン着、1月5日トラック着)
(戊号輸送作戦・戊二号輸送部隊)
昭和19年 1月10日~ トラック発、呉に回航(1月15日呉着)
昭和19年 1月18日~ 呉にて入渠(1月21日出渠)
昭和19年 1月29日~ 呉発、門司に回航(1月29日門司着)
昭和19年 1月30日~ 洲本沖より830乙船団(?)護衛任務
昭和19年 2月 2日 横須賀着
昭和19年 2月 4日~ 横須賀発、横浜着
横浜~トラックにて3206船団護衛任務(2月18日トラック着)
昭和19年 2月17日 3206船団護衛任務中、トラック大空襲に遭遇、対空戦闘
昭和19年 2月20日~ トラック~パラオにて「明石」護衛任務(2月24日パラオ着)
昭和19年 3月 1日~ パラオ発、「崎戸丸」救難任務(3月7日サイパン着)
昭和19年 3月10日~ サイパン~パラオにて「国洋丸」護衛任務(3月13日パラオ着)
昭和19年 3月15日~ パラオにて対潜掃蕩任務(~3月17日)
昭和19年 3月29日~ パラオ発、呉に回航(4月2日呉着)
昭和19年 4月15日~ 呉発、柱島に回航(4月15日柱島着)
昭和19年 4月16日~ 柱島発、泗礁山に回航(4月19日泗礁山着)
昭和19年 4月21日~ 泗礁山発、竹船団護衛任務(4月27日マニラ着)
昭和19年 5月 1日~ マニラ発、引き続き竹船団護衛任務(5月9日ワシレ着)
昭和19年 5月11日~ ワシレ発、バリクパパン回航(5月13日バリクパパン着)
昭和19年 5月15日~ バリクパパン~タウイタウイにて油槽船団護衛任務(5月18日タウイタウイ着)
昭和19年 6月13日~ タウイタウイ発、ギマラス回航(6月14日ギマラス着)
昭和19年 6月15日~ ギマラス出撃、あ号作戦に参加(6月22日中城湾着)
昭和19年 6月23日~ 中城湾~マニラにて「旭東丸」護衛任務(6月25日マニラ着)
昭和19年 6月25日~ マニラ~シンガポールにて「旭東丸」護衛任務(6月29日シンガポール着)
昭和19年 7月 2日~ シンガポール~マニラにて「旭東丸」護衛任務(7月9日マニラ着)
昭和19年 7月10日~ マニラ~呉にて「速吸」船団護衛任務(7月17日呉着)
昭和19年 7月 8日~ 呉発、シンガポール回航(7月16日シンガポール着)
昭和19年 7月17日~ 呉にて補給整備(~7月30日)
昭和19年 8月 8日 伊万里回航
昭和19年 8月10日 伊万里発、ヒ71船団護衛任務(8月15日馬公着)
昭和19年 8月17日 馬公発、引き続きヒ71船団護衛任務(8月20日サンタクルーズ着)
昭和19年 8月22日 マニラ回航
昭和19年 9月 1日 シンガポール回航
昭和19年10月10日 シンガポール発、ガラン回航(10月11日ガラン着)
昭和19年10月17日 ガラン発、ブルネイ回航(10月20日ブルネイ着)
昭和19年10月22日~ ブルネイ出撃、捷一号作戦に参加
昭和19年10月24日 捷一号作戦に従事中、シブヤン海にて空襲により小破
昭和19年10月27日 捷一号作戦に従事中、セミララ島沖にて空襲により沈没
昭和19年12月10日 類別等級表より削除
除籍
2001.10.17初出
2004.05.12改訂
2007.11.25改訂
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