解説
「朝霜」は昭和18年1月21日、「夕雲型」の1隻として藤永田造船所で起工されました。
ちょうど日本陸海軍がガダルカナル島からの撤収準備に忙殺されていた頃のことです。
藤永田造船所ではこれまでに「夕雲型」を5隻建造していて作業に慣れていたのか、6隻目の「朝霜」はわずか310日後の同年11月27日に竣工し軍艦旗を掲げていました。
この建造期間は「夕雲型」19隻の中では最も短いものでした。
初代艦長は前川二三郎中佐でした。
就役した「朝霜」は訓練部隊である第十一水雷戦隊に即日編入され、本隊に合流してからは基本的な編隊航行から射撃、雷撃まで様々な訓練に従事し技量を磨いていきました。
訓練の合間に、内海西部から横須賀まで戦艦「山城」を護衛する任務が割り込み、「朝霜」はすぐ後に竣工した「沖波」と歴戦の「時雨」「春雨」と合同して護衛任務を果たしますが、直ちに柱島での訓練に戻っています。
戦前に見られなかった訓練としては、新兵器である電波探信儀の講習があります。
「朝霜」は竣工時より対水上捜索レーダーである22号電探を前マストに装備していました。
年が明けた昭和19年の1月には、姉妹艦である「岸波」と共に、この22号電探を使用した電探射撃の実験も行なっています。
「朝霜」の電探に関する訓練の成果は、この後にも様々な場面で発揮されることとなります。
また1月27日、艦長が杉原与四郎少佐に交代しました。
この杉原艦長の下、「朝霜」は長い間闘い続けることになります。
2月10日、「朝霜」は「岸波」「沖波」と共に第二水雷戦隊に所属していた第三十一駆逐隊に編入されました。
いよいよ実戦部隊の一翼を担うことになったのです。
この三十一駆にはソロモン戦域で名を馳せた「長波」がいましたが、前年末にラバウルで空襲されて大破しており、ようやく呉に戻ってきて修理にかかったばかりでした。
傷ついた「長波」と三十一駆を編成していた「巻波」「大波」はソロモンの海に消えてしまっており、「朝霜」たちは入れ違いに編入された形でした。
「岸波」に率いられた新編成の三十一駆の初仕事は船団護衛でした。
この頃のアメリカ軍の圧力は、ソロモン・ニューギニア方面もさることながら、中部太平洋方面でも強まってきており、内南洋諸島を守備する陸上兵力や防衛資材の展開が急務となっていました。
これは後に「松輸送」の名前で海上護衛総司令部が大々的に行なう輸送作戦へと発展していきますが、作戦としての松輸送が開始される前に輸送の準備が整った陸軍第二十九師団を輸送することになりました。
三十一駆の3隻は、第二十九師団を分乗させた「安芸丸」「崎戸丸」「東山丸」の大型輸送船を護衛し、宇品からサイパンまで送り届ける任務に就きます。
「朝霜」は十一水戦時代にしばしば電探に関わる訓練に従事していましたが、「朝霜」はこの輸送に当たっていきなりその成果を見せることになりました。
2月26日に宇品を出港した安芸丸船団は、29日(昭和19年は閏年)未明、敵潜水艦と遭遇します。
3時前、「朝霜」は22号電探で浮上中の敵潜を探知すると、探照灯を照射。
探照灯は敵潜を捉え、「司令塔上に電波探信儀らしい巨大な塔を持つ」姿を浮かび上がらせました。「朝霜」は直ちに砲撃。
「朝霜」は敵潜の司令塔に1発、船殻に1発の命中を認め、更に6時半頃まで音波探信儀で捜索を続行しましたが反響音がなく、撃沈を報じました。
この敵潜水艦は米潜水艦「ロック」(Rock SS-274)で、「朝霜」の攻撃は彼女の撃沈には至りませんでした。
一方で「ロック」も接近してくる駆逐艦、恐らく「朝霜」に対し魚雷を4本発射していたのですが全て外れ、しかも潜望鏡と司令塔に重度の損害を受けてしまったのです。
更に「朝霜」の爆雷攻撃は「ロック」を海面下に押し込めて再攻撃の機会を与えず、結局「ロック」は哨戒行動を打ち切ってそのまま真珠湾に帰る羽目になっています。
「朝霜」は撃沈を報じつつも4時過ぎに敵潜からのものらしい電話の強い電波を確認しており、別の潜水艦が潜んでいるものと判断しています。
依然として敵潜の脅威は去っていないと思われました。
そして同日17時53分、輸送船団に迫る雷跡が発見されました。
雷跡はみるみるうちに「安芸丸」「崎戸丸」「東山丸」の3隻全てを捉えたのです。
「東山丸」に命中した魚雷は幸いにして不発でしたが、「安芸丸」は船首に「崎戸丸」は機械室左舷に被雷してしまいました。
「安芸丸」は船首を沈下させつつも沈没の恐れはありませんでしたが、「崎戸丸」は当たり所が悪くすぐに動力を失い、被雷と同時に発生した火災を制圧できず延焼、19時に退船命令が出されることとなったのです。
「岸波」は「朝霜」と共に直ちに対潜制圧を始め、「沖波」は傷ついた「安芸丸」「東山丸」を護ってグァムへと避難していきます。
対潜戦闘を開始した「朝霜」は爆雷をまとめて投射したところ聴音機が誘爆音を捕捉、それきり反応がなくなってしまいました。
念のためもう1個爆雷を投じてとどめとし、潜水艦1隻の撃沈を報じたのです。
この敵潜水艦は米潜水艦「トラウト」(Trout SS-202)と確認されており、「朝霜」は「崎戸丸」の仇を討ったことになります。
「崎戸丸」は翌3月1日4時に沈没し、船全体を覆った火災により船員、陸軍将兵合計2300名あまりが命を落としました。
「岸波」と「朝霜」は「崎戸丸」遭難者の救助に当たっていましたが、応援に駆けつけてきた三十二駆の「藤波」「早波」に救助作業を引き継ぎ、「安芸丸」船団を追及し護衛に戻りました。
「崎戸丸」生存者を乗せた「岸波」と「朝霜」は6日にサイパンに入港しましたが、後味の悪い初陣になってしまいました。
傷ついた「安芸丸」を護って横須賀へとって返した「朝霜」たち三十一駆は、再び船団護衛任務を命ぜられます。
今度の任務は正式に始まっていた松輸送作戦の一つで、「浅香丸」「山陽丸」「さんとす丸」の3隻より成る松三号特船団の護衛でした。
3隻の輸送船はいずれも7~8000トンクラスの大型輸送船で、B船、即ち海軍徴用船でした。
松三号特船団は、松三号の本隊より一足先の3月20日に館山を出港し、25日にサイパン行きの「山陽丸」を分離します。
26日には敵潜水艦を探知、「朝霜」は「沖波」と共に敵潜を攻撃しますが手応えなく護衛に戻りました。
その後も潜水艦の探知騒ぎがありましたが結局攻撃を受けず、28日、船団は無事にトラックに到着することができました。
トラックでは新たに「浅香丸」「さんとす丸」から成る4401船団を編成、「朝霜」は「第30号駆潜艇」と共に船団を護衛することになります。
4401船団は4月1日トラックを発し、4日にサイパンに入港します。
米軍の中部太平洋方面に対する圧力が強まっていたのは前述の通りですが、2月17~18日にトラックが、3月30~31日にはパラオも米機動部隊によって痛撃され無力化されてしまいます。
この結果、トラックとパラオ、ウルシーといった連合艦隊の前進根拠地がことごとく使い物にならなくなり、それどころかパラオを中心とする西カロリン諸島への米軍の上陸を警戒せざるを得なくなったのです。
米機動部隊の進攻を迎え撃つべき連合艦隊の水上兵力ですが、3月10日を以て小沢中将を司令長官とする第一機動艦隊が編成されていました。
第一機動艦隊は日本海軍が初めて編成した空母中心の建制艦隊で、空母機動部隊である第三艦隊と水上打撃部隊である第二艦隊とを基幹としていました。
パラオ空襲直後の4月1日の時点では、第三艦隊の主力はリンガにあって訓練中、第二艦隊の主力はパラオの空襲を避けてダバオに集結しつつある状況でした。
しかしダバオは防諜上問題があるとして敬遠され、その代替地とされたタウイタウイも設備不十分で訓練もままならず、また米機動部隊の次期作戦が4月中旬にも予想されていたことから、第二艦隊は直ちに第三艦隊に合同することになりリンガへ集結することになります。
ですが、この時点で第一機動艦隊の持つ駆逐艦の数は非常に限られていました。
ただでさえ少ないところに輸送船護衛として派出中の駆逐艦も数多く、第二艦隊は中部太平洋方面艦隊に対して輸送作戦に従事中の駆逐艦を早く戻してもらえるように要請します。
この要請を受けて「朝霜」も船団護衛の任務を解かれ、バリクパパン経由で4月14日、リンガに到着します。
バリクパパン寄港の折は「朝霜」にバリクパパンの海図が準備されていなかったらしく、到着したはいいものの入り口がわからず入港に難儀し、結局その付近を航海していた現地の漁船を呼び止めて船長を艦橋に招き入れ、水先案内を頼んでようやく事無きを得たという話もありました。
協力してくれた船長には手厚く土産の品を持たせたと言いますが、「朝霜」の艦尾に曳航されていた漁船のほかの船員は終始不安そうにしていたそうです。
その後、米機動部隊の予想来攻時期が後ろにずらされたことから第一機動艦隊の出撃は延期され、約1ヶ月の間「朝霜」は第二艦隊と共にリンガにて訓練に従事する期間を得ることが出来ました。
このリンガ泊地は水深が浅いなどの要因から、潜水艦からも比較的安全という評判でした。
ただ地の利があるとは言え、もちろん対潜哨戒は欠かせません。
第一機動艦隊を構成する第二艦隊と第三艦隊は、それぞれ二水戦と十戦隊という駆逐艦部隊を擁しており、この2部隊は協同して泊地の警戒に当たっています。
とにかく駆逐艦の数が足りていないので、リンガで敵潜の発見が報じられると両部隊の駆逐艦が合同で対潜掃蕩を行なう必要があったようです。
「朝霜」もリンガ到着当日の4月14日、十戦隊旗艦「矢矧」の指揮下に組み込まれ、六十一駆の「秋月型」3隻と合同して対潜作戦に従事しています。
また4月末には内地から進出してくる「大和」「摩耶」の出迎えも行なっています。
5月中旬、第一機動艦隊を基幹として編成された第一機動部隊は「あ」号作戦計画に基づき、決戦海面に近いタウイタウイへ進出することになります。
5月11日、第三艦隊に先だって第二艦隊がまず抜錨、リンガを後にしました。
「朝霜」もこの艦隊の中にあり、艦隊は14日、タウイタウイへ到着します。
主力艦は次々と入港し、いよいよ「朝霜」も指定錨地へ行こうとしたところ、二水戦旗艦「能代」が入港に待ったをかけました。
続いて「能代」は「朝霜」にバリクパパンへ行けと命じてきました。
リンガからボルネオ島を北回りでタウイタウイへ到着したところ、入港を目の前にしてボルネオの南東岸にあるバリクパパンへ向かうことになり、乗組員には応えるものがあったそうです。
ただ、これも重要な任務でした。
バリクパパンには、大本営を紛糾させてまで何とか作戦用に融通してもらった虎の子のタンカー船団がいたからです。
「日栄丸」「建川丸」「あづさ丸」の3隻の1万トン大型タンカーでした。
もともと「日栄丸」船団には六駆の「電」「響」がついていたのですが、14日セレベス海にて「電」が米潜に撃沈されてしまったのです。
第一機動部隊が行動するためには何としても「日栄丸」たち3隻のタンカーが必要だったため、途中で潜水艦に沈められないよう、第一機動部隊は十戦隊や二水戦から何隻か派出して護衛させることにし、「朝霜」もその1隻に指定されたわけです。
「朝霜」は15日にバリクパパンへ向かいましたが、入港前に「日栄丸」船団に追いつくことが出来ず、同地に到着したところ既に船団は入港していました。
バリクパパンで燃料を一杯に積み込んだタンカー部隊は、17日、タウイタウイに向け出港しました。
「日栄丸」船団を護衛するのは「響」と、タウイタウイから応援に来た「朝霜」「浜風」、竹船団の護衛を終えたばかりの「五月雨」の駆逐艦4隻で、19日、無事に到着することが出来ました。
タウイタウイに進出した第一機動部隊はここで総合訓練を行なう予定でしたが、想像以上に米潜水艦の跳梁が激しく、訓練中の空母が雷撃を受けるという事態まで発生して空母部隊の訓練は全く低調になってしまいました。
駆逐艦を対潜制圧に出しても逆に米潜に沈められてしまうという有様で、ほとんど処置なしという状況だったのです。
各空母に缶詰にされた状態のパイロットの練度を維持、向上させるためには、せめて陸上の航空基地で訓練が継続できるような環境が不可欠で、第一機動部隊は訓練施設の欠如したタウイタウイを出てギマラスへ移動しようと考えていました。
そんな中5月27日に始まったビアク島を巡る攻防戦ですが、連合艦隊は決戦部隊を動かさず当初は静観する構えだったのですが、やがて米機動部隊を誘致できる可能性が重視されるようになり、一転して第二艦隊の主兵力の一部を投入することになりました。
6月10日、一戦隊の「大和」「武蔵」を主力とする艦艇が、ビアク増援部隊である「渾作戦部隊」に合流すべくタウイタウイを出撃していきました。
「朝霜」はこの作戦には参加せず、二水戦からは旗艦「能代」と高速駆逐艦「島風」、三十一駆の僚艦「沖波」が選ばれています。
ところがその翌日の11日、サイパン、テニアン、グァムに対し、米機動部隊による空襲が開始されたのです。
6月13日、第一機動部隊はギマラスへ向けてタウイタウイを出撃、翌日到着後、直ちに燃料補給を行ない出撃に備えます。
そして15日朝、小沢長官は第一機動部隊をギマラスから出撃させたのです。
「朝霜」は3隻の軽空母より成る三航戦を基幹とした第一機動部隊前衛に、第二艦隊の僚艦と共に配属されていました。
16日、艦隊は最後の燃料補給を開始し、「朝霜」は以前護衛した「日栄丸」から曳航給油を受け、燃料タンクを満たします。
戦機は急速に熟し18日には前衛は本隊と分離して敵方に進出を開始、19日未明からの索敵によって米機動部隊の位置を把握した小沢機動部隊は空母決戦の火蓋を切りました。
前衛は更に空母1隻毎に1つの群を作り3群に分かれていましたが、「朝霜」がどの空母を守っていたか正確なところは不明です。
「瑞鳳」を中心に「大和」以下重巡4を擁する第十一群にあったという説と、「千代田」を中心に「榛名」「摩耶」らを擁する第十二群にあったという説があります。
当日7時半頃から「瑞鳳」「千代田」も発艦作業を始め、20数機の攻撃隊を舞い上がらせます。
前衛の遙か100浬後方では本隊も同じように攻撃隊を発艦させているはずでした。
9時頃、「朝霜」は「大和(?)」の艦橋に揚がる旗旒信号を認めます。
敵機来襲を告げるものでした。
「朝霜」にはまだ対空レーダーである13号電探が装備されていなかったため、このように早期警戒は「大和」など大型の対空レーダーを装備している艦艇を頼らざるを得ない状況でした。
これを受けて「朝霜」は見張員による対空警戒を厳にし、やがて大編隊接近の報が上がってきます。
この大編隊に対して第十一群の各艦は対空射撃を開始しました。
「朝霜」も発砲を開始したのですが、実はこの大編隊は本隊が放った攻撃隊だったのです。
この誤射により2機が不時着したらしく、他に8機が引き返すという混乱を起こしてしまいました。
そのまま米機動部隊に向かった攻撃隊は、しかし誤射による損害は無視し得るほど少ない機数しか戻って来ず、喪失機数は出撃機に対して75%程度と甚大な損害を被ったのです。
「朝霜」でも帰ってくる飛行機の数が非常に少ないことを心配する声がありましたが、空襲を受けていないので敗北したという実感はまだなかったと言います。
翌20日、航空隊の損害を把握しきれていなかった小沢長官はまだ決戦を継続するつもりでいましたが、索敵機が米機動部隊を発見できないことから彼我の距離が相当あると判断、補給部隊を呼び寄せて艦隊に補給を開始します。
ところが昼頃、基地航空隊の索敵機が比較的近い距離で米機動部隊を発見、小沢長官は急遽補給を打ち切り、北西に向けて艦隊を退避させ始めました。
夕方になってから米攻撃隊が姿を現しました。
米攻撃隊は隻数の多い前衛にはあまり攻撃をしかけず本隊に集中し、前衛では「千代田」を基幹とする第十二群が攻撃された程度でした。
「朝霜」も対空射撃を行なったようです。
この空襲により「飛鷹」が沈没、「瑞鶴」「隼鷹」「千代田」などが損傷を受けてしまいました。
空襲が終わると、既に発令されていた夜戦命令に従い第二艦隊を基幹とした遊撃部隊に集結命令が下されます。
ただ、恐らく麾下の艦艇が広範囲に散らばっていたのでしょう、集結にかなり手間取った様子で、19時過ぎになってから集結を完了し、米機動部隊へ向けて進撃を開始しました。
「朝霜」も速力を上げてこれに従いましたが、19時45分になって連合艦隊司令部より小沢機動部隊に対して離脱命令が下ってしまいました。
これを受けて20時に小沢長官から栗田長官に宛て、夜戦の見込みがなければ引き返せと命令が伝えられたのです。
栗田艦隊は21時過ぎに夜戦を諦め、北西に向け避退を開始しました。
「朝霜」たち駆逐艦は燃料補給を受けていなかったため、燃料の在庫が相当厳しかったようですが、22日、辛うじて沖縄の中城湾に入泊することが出来ました。
日本海軍史上最大の空母決戦は、遂にその目的を達することなく終焉を見たのです。
中城湾に入った「朝霜」はここでようやく燃料の補給を受けることが出来ましたが、翌23日には「島風」と共に「榛名」を護衛して佐世保へ向かいました。
「榛名」は20日の空襲で被害を受けており、佐世保へ回航することになったのです。
「朝霜」は25日にはすぐ佐世保を引き払い、関門海峡経由で呉へ戻ります。呉には一足先に第二艦隊の主力が戻ってきていました。
呉に戻った「朝霜」は他の第二艦隊の僚艦と同じく、慌しく工廠にドック入りさせられます。
この時「朝霜」は整備補修だけでなく、待望の13号電探を装備、更に前部煙突の後方に機銃台を設けて25ミリ三連装機銃を2基、甲板にも単装機銃を増備しています。
突貫工事が終わると、すぐさま南方へ向けて出撃の準備が始まりました。
内地は燃料がないので、第二艦隊は訓練と待機のために再び燃料の豊富なリンガへ向かうのです。
そのついでに、「大和」「武蔵」など大型艦艇は南方に進出予定の陸軍部隊を輸送することになり、その揚搭作業が夜を徹して行なわれました。
また、「朝霜」たち三十一駆の中で最古参ながら、「朝霜」竣工時より延々と修理中であった「長波」がようやく戦列に復帰し、駆逐隊に加わりました。三十一駆は初めて4隻が勢揃いしたことになります。
7月8日、「朝霜」を含む第二艦隊は呉を出港し同夜は臼杵湾で仮泊、9日に豊後水道を南下します。
10日中城湾に入港し物件の一部を揚陸するとその日の内に出港、シンガポールには16日に到着。
途中、恐れていた米機動部隊の空襲や潜水艦襲撃はなく、シンガポールに入港した乗組員には半舷上陸が許されたそうです。
リンガではほぼ3日に1度くらいの割合で出動訓練がかかり、二水戦主体の襲撃訓練や第一遊撃部隊(8月1日、第二艦隊と第三艦隊の一部をもって編成された兵力部署)全体の戦闘訓練もあり、駆逐艦ともなると更にその合間に対潜哨戒や船団護衛という仕事をこなさねばなりませんでした。
三十一駆では、8月下旬にシンガポールからボルネオ島のクチンへ向かう輸送船団を護衛しています。
ただ「朝霜」に限らずリンガについての回想のほぼ全てに共通しますが、赤道直下の無風地帯でとにかく暑く、時折来るスコールで涼む他は炎熱地獄だったようです。
リンガでの訓練は7月下旬から10月上旬までの長きにわたりました。
しかしこの間米軍が手を休めていたわけではなく、9月にはフィリピンの南部から中部にかけて米機動部隊が来襲、同月15日にはペリリュー、モロタイの両島に海兵隊と陸軍がそれぞれ上陸。更に10月10日、米機動部隊は沖縄を痛撃。
これが海軍がマリアナ後に準備していた捷号作戦の発動を促し、台湾沖航空戦が惹起すると共に、リンガにあった第一遊撃部隊も訓練を中止して出撃準備を始めたのです。
10月17日、突然、レイテ湾口にあるスルアン島に対する米軍部隊の上陸が通報されます。
日本側にとって予想外のことでしたが、連合艦隊司令部は直ちに捷一号作戦警戒を発令しました。
リンガ在泊の第一遊撃部隊もブルネイへの進出命令を受け、明18日1時にリンガを発します。
この時「朝霜」も出撃するつもりでしたが、揚錨しようとしたその時になって缶の故障が報じられてしまいました。
直ちに司令駆逐艦「岸波」に対し故障の発生と修理完了し次第追及の予定と信号し、缶を止める作業に入りました。
動かない「朝霜」を置いて、第一遊撃部隊の各艦は整然と出港していってしまいます。
缶の水管のどれかが破裂したようなのですが、高熱ですからとてもすぐには修理できません。
一度缶の火を消して修理が出来る程度にまでに冷やし、恐らく破れた水管に栓をしたのでしょう、それから急速暖機という手順で、出港まで4時間ほど時間を費やしてしまいました。
急いで追及したお陰で、本隊に遅れること約1時間、翌20日の13時前にブルネイに到着することが出来ました。
第一遊撃部隊に与えられていた任務は、レイテ湾に蝟集している米上陸軍輸送船団の撃滅にありました。
しかしこの時点で、第一遊撃部隊はレイテ突入までの燃料を持っていませんでした。
連合艦隊より示されたレイテ突入期日は25日であり、その為には22日にブルネイを出撃しなくてはならない計算です。
その為、第一遊撃部隊の各艦はタンカー到着後の補給所要時間を極力縮めるべく、巡洋、駆逐は戦艦の重油を移載して満載とし、タンカーは戦艦と重巡に補給すれば良いという状態にしておくことにしました。
この措置はブルネイへ艦隊が入港した20日、直ちに実行され、「朝霜」は「大和」より補給を受け満載としたのです。
内地の軍令部や海軍省が苦心惨憺して陸軍よりタンカーを入手しましたが、栗田長官は独断でこれを押さえており、21日に「八紘丸」「雄鳳丸」の2隻がブルネイに到着します。
全艦が補給を終えたのは22日の朝5時。第一遊撃部隊主隊(栗田艦隊)が予定していたブルネイ出撃は朝8時。
栗田長官の独断専行が奏功した形で、栗田艦隊は何とかタイムテーブル通りにブルネイを出撃することが出来たのです。
ブルネイを出撃した栗田艦隊は、諸般の事情から狭隘なパラワン水道を通過するルートを選択し、第一部隊、第二部隊共に各々5列の縦陣を成す対潜警戒航行序列で航行していました。
「朝霜」は栗田長官の座乗する旗艦「愛宕」が率いる第一部隊にあり、5列の縦隊の中央列後方に位置していました。
しかし栗田艦隊は敵潜水艦伏在の可能性を十分に意識しており、それ故に神経過敏気味になっていたようです。
ブルネイ出撃直後から敵潜発見の警報が相次ぎ、ほぼ全てが虚探知であったのですが、将兵の神経はすり減っていきました。
日付が23日に変わる頃、艦隊はパラワン水道へ進入。
更に2時50分、旗艦「愛宕」が敵潜のかなり強い電波を捕捉、これを麾下の艦艇に通報します。
そして日の出直前の23日6時33分、艦隊の中央列の最前方にあった「岸波」が突然汽笛を鳴らしました。
しかしこの警報は間に合わず、旗艦「愛宕」の右舷に4本もの魚雷が命中したのです。
更に同34分、「愛宕」のすぐ後ろにいた「高雄」の右舷にも2本の魚雷が命中。
「朝霜」は直ちに最大戦速に増速、爆雷の脅威投射を開始しました。
やがて「愛宕」から近寄るよう信号が送られてきます。
「朝霜」は「岸波」と共に爆雷投射を中止し「愛宕」へ接近しました。
既に「愛宕」はひどく傾斜しており沈没は時間の問題で、「岸波」が横付けを試みましたが不可能でした。
6時53分「愛宕」沈没。
その直後の55分、今度は「摩耶」が魚雷4本を喫し、わずか8分の後にその姿を消してしまいました。
艦隊は混乱に陥りましたが、「朝霜」と「岸波」はその混乱に巻き込まれることなく、「愛宕」乗員の救助にあたっていました。
「朝霜」はロープなどを垂らし、脱出した遭難者を直接救助するのと同時に、カッターも2艘卸して救助活動を進めました。
その結果「愛宕」の荒木艦長以下500名あまりを助け上げ、残りは「岸波」が救助しました。
ただ「岸波」は、栗田長官と第二艦隊司令部の主要職員を救助したことで司令部移乗の必要性が生じ、「朝霜」が救助活動を続けている間に作業を打ち切り、7時55分に本隊を追及していきました。
一方、同時に被雷した「高雄」は機械が損傷し航行不能になりましたが、沈没の恐れはありませんでした。
「高雄」には「朝霜」と同じ三十一駆の僚艦「長波」がついており、止めを刺されないように警戒していました。
8時32分、「朝霜」は、一時的に第一遊撃部隊の指揮権を継承していた一戦隊司令官・宇垣中将から、「高雄」を護衛するように命じられます。
また宇垣司令官は南西方面艦隊に宛てて「高雄」の救援依頼を送っています。
「朝霜」は「高雄」の小野田艦長の指揮下に入り、「高雄」の西半分を「長波」が、東半分を「朝霜」が警戒することになりました。
その間「高雄」は破損した機械を動かすべく、懸命の応急修理を試みていました。
缶こそ浸水で4分の3が駄目になっていましたが、機械は無事でした。
舵も故障したとは言え流れておらず中央に固定されています。
また、まだ敵潜が伏在している可能性も考慮し、被雷時に破損していた搭載水偵も修理し、警戒に当たらせます。
「朝霜」は時々敵潜水艦を探知し、その度に爆雷を投射していますが、決定的な効果は得られませんでした。
しかしその行動は無駄ではなく、後のアメリカ側の記録を見ると何度も米潜が接近を試みたが直衛駆逐艦の有効な警戒により阻まれた旨が指摘されています。
17時半頃、一向に動き出さない「高雄」にしびれをきらしたのか「長波」が曳航の要否を問い合わせましたが、「高雄」は不要であると回答しています。
実際「高雄」の修理作業は進展を見ており、21時過ぎにはとうとう行動力を取り戻すことに成功したのです。
「高雄」の修理作業を待っている間、第二艦隊の旗艦であった「愛宕」の乗員を救助したことにより通信関係の職員が一時的に増えた「朝霜」では、暗号解読量がそれこそ飛躍的に増加し、普段は解読しないよう暗号文まで解読し、戦況の把握には不自由しなくなっていました。
ですが、恐らくは解読した電文が伝える戦況は芳しくないものばかりだったことでしょう。
「高雄」は約6ノットというゆっくりとした速度でブルネイへ向けて航行していましたが、翌24日の3時頃、「朝霜」の電探が怪しい反応を探知します。
敵潜の影だった可能性もありますし、やや方位が異なるのですが、宇垣司令官の救援依頼に応じて第三南遣艦隊が手配した水雷艇「鵯」と特設駆潜艇「御津丸」だった可能性もあります。
実際のところ反応したものの正体は分かりませんが、雷撃されることもなく、30分後くらいに「朝霜」は味方2隻の姿を認め、「高雄」にその接近を報告しています。
更に明け方になると対潜哨戒の陸攻も飛来します。
この陸攻は、ところがこの近くのボンベイ礁に敵潜が1隻座礁しているという情報をもたらしました。
座礁した敵潜とは、後に判明しますが「ダーター」(Darter SS-227)で、前日に「愛宕」と「高雄」を雷撃した張本人でした。
あるいはこの「ダーター」が「朝霜」の電探が捉えていた物体だったのかも知れません。
「高雄」艦長は直ちに「長波」に「鵯」をつけて分派、この潜水艦の処分と機密物件の押収を命じます。
2隻が離れている間も「朝霜」は電探、聴音機を駆使して「高雄」の警戒に当たり続けました。
13時と16時には敵潜らしきものを探知、爆雷による攻撃を繰り返しています。
16時前に「長波」から座礁敵潜の情報がもたらされると同時に、「長波」に対して本隊の「妙高」護衛の命令が来ました。
「長波」はこの新たな任務のためにそのまま分離、「鵯」だけが「高雄」「朝霜」のところへ戻ってきました。
「高雄」は被雷部分の外板がめくれて大きな抵抗となり、舵中央固定にもかかわらず勝手に旋回してしまうような状況で針路が安定せず、当初はおっかなびっくり進んでいました。
ですが、この状態の操艦に慣れるに従って速度を上げても保針が可能となり、また機械の調子も上がってきていたことから、最終的には11~12ノットまで回復していました。
そして25日夕刻、遂にブルネイへたどり着くことが出来たのです。
18時過ぎにブルネイに入港した「高雄」は、「朝霜」たち護衛艦に謝意を表し、かつ「高雄」艦長による指揮を解く旨を信号してきました。
「高雄」護衛任務を終えた「朝霜」は、ブルネイ入港後直ちに「高雄」に横付けして燃料を受け取ると共に、収容したままだった「愛宕」乗組員を「高雄」に移乗させます。
身軽になった「朝霜」は直ちにブルネイを出港、バラバック海峡を抜けスールー海を北上するルートでレイテへの突入を試みようとしました。
栗田艦隊への合同は時間的に不可能と判断、南側より突入する西村艦隊のように行動しようとしたようです。
「朝霜」の杉原艦長が直接「高雄」の艦橋に出向き、「高雄」艦長から護衛の礼を受けた後、前述のレイテ突入の旨を「高雄」から発信してくれるよう依頼します。
ところが反対に「高雄」の副長から、栗田艦隊が既に反転して帰途についていることを知らされます。
一時的に増大していた暗号解読量も、「愛宕」乗組員が退艦の準備を始めたことが影響したのか、「朝霜」はこの事実を了解していなかったようでした。
それでも「朝霜」はブルネイを出撃、パラワン島の東の海上を北上します。
しかしその頃には既に西村艦隊は全滅しており、栗田艦隊の残存艦隊もパラワン島の北部を西へ向かって通過中だったのです。
26日の朝、パラワン島東岸を北上していた「朝霜」は、改めて司令官からのブルネイへ戻れという命令を受領します。
「朝霜」にとっての捷一号作戦はここで終わりを告げたのです。
栗田艦隊はブルネイへ戻ってきましたが、「武蔵」に「鳥海」「熊野」「鈴谷」「筑摩」、「朝霜」たちの二水戦旗艦「能代」の姿も見えず、駆逐艦でも二水戦の「藤波」が、十戦隊の駆逐艦も数隻、ブルネイに帰ってきませんでした。
残存艦もほとんどが多かれ少なかれ損傷を被った姿を見せていました。
三十一駆の僚艦は1隻も欠けていませんでしたが、「沖波」は大破した重巡「熊野」の護衛任務でコロンからマニラに向かってしまっていました。
10月27日、「朝霜」たち三十一駆逐隊は第一遊撃部隊から第二遊撃部隊へ配属を変えられます。
第二遊撃部隊とは第五艦隊を基幹とした艦隊で、第一遊撃部隊が内地に戻るため、フィリピン、シンガポール方面における日本海上兵力の主力となる部隊でした。
これは進行中のレイテ輸送作戦への参加させる措置であり、その為にマニラへ進出せよとの命令を受けます。
もっとも三十一駆だけでは不足と判断されたのか、翌28日には二水戦全体が第二遊撃部隊に編入されています。
29日、「岸波」に座乗していた三十一駆司令、福岡大佐が「朝霜」へ移ってきました。
30日、福岡司令は「朝霜」と「長波」を率いてブルネイからマニラへ進出します。
「沖波」は記述の通り「熊野」を護衛して一足先にマニラに入っており、「岸波」は別の護衛の用事が入っていたための乗り換えだったと思われます。
マニラには31日朝に到着しましたが、この時にマニラはあいにく霧に包まれており、視界は極度に限られていました。
「朝霜」は電探を駆使し、福岡司令は盛んに心配しましたが、特段の問題もなく入港作業を終えました。
十一水戦での訓練時以来、電探の扱いにすっかり熟練した「朝霜」の姿が窺えます。
マニラについたはいいもののレイテ島へ向かう輸送船団(一水戦基幹)は編成を終えており、今更予定にない艦を編入することはないと判断されたのでしょう、「朝霜」はマニラでしばらく待機していたのですが、11月5日、米艦載機が大挙してマニラを襲いました。
マニラ湾内にあった艦艇は米軍機の格好の目標となり、第二遊撃部隊の重巡「那智」が湾内で集中攻撃を受けて撃沈されるなどの被害を受けます。
港内にあった「朝霜」も繋留中に空襲警報を知ります。
すぐさま桟橋を離れ対空戦闘に移りましたが、爆撃機や雷撃機ではなくどうやら戦闘機に狙われたようで、専ら銃撃による攻撃でしたが、執拗極まりないものでした。
この戦闘では人員の損害が大きく、砲術長を含む9名が戦死、26名の重傷者を数えています。
重傷者はすぐにマニラの病院に入院させられています。
この損害のせいかどうか分かりませんが、福岡司令は6日「朝霜」から僚艦の「沖波」へ移ります。
また前日の奇襲の二の舞を恐れ、三十一駆は昼の間、港外に避難していました。
11月8日、「朝霜」は「長波」と共に第四次多号作戦に参加します。
多号作戦とは、米軍の上陸したレイテ島に対する増援作戦でした。
策源地のほとんどはマニラで、ここで船団を編成してレイテまで人員物件を輸送するのです。
多くの面でガ島方面で繰り返された輸送作戦に類似する状況でしたが、昭和17年頃と異なり、とにかく米陸海軍の航空戦力が強大でした。
ですが、四十一連隊を運ぶ第一次、第一師団を運ぶ第二次多号作戦は無傷とは言えないまでも概ね成功し、低速の商船を敵制空圏内に突入させるという危険性が顧みられることはありませんでした。
11月上旬、マニラでは陸軍第二十六師団を揚陸するために、2つの多号船団が準備されていました。
低速な輸送船団とそれよりはやや高速の輸送船団が準備されており、それぞれ第三次、第四次船団と予定されていました。
ほぼ同時進行で準備が進んでいた第三次と第四次多号船団ですが、第四次船団の方が先に準備が整ったため、第三次船団に先んじて11月8日マニラを出発します。
同船団は第二十六師団の2個歩兵大隊を始め速射砲中隊などの重機材が積み込まれていました。
指揮は一水戦司令官の木村少将が執っていました。木村少将はキスカ撤退作戦を成功に導いたことで有名です。
輸送船は「香椎丸」「金華丸」「高津丸」の、この時期貴重な17~20ノットクラスの優速船ばかり3隻で、多号第二次輸送から無事に戻ってきた船でした。
輸送船を直接護衛していたのは「沖縄」「占守」「第11号」「第13号」の4隻の海防艦です。
これに加えて間接護衛として一水戦と二水戦の混成チームがつき、一水戦からは旗艦「霞」と「潮」、二水戦からは「朝霜」「長波」の三十一駆のペア、そしてブルネイから回航されてきた「秋霜」、これに十戦隊の生き残り「若月」が参加していました。
船団側からすればとにかく敵哨戒機に見つからないことが何にも増して重要事項でしたが、その点第四次船団は折りよく暴風雨に恵まれ、出港した8日は丸一日接触から逃れることが出来ました。
しかし9日には天候が回復してしまい、昼前には早くも米陸軍機に発見されてしまいました。
船団は夕方にオルモック湾口に到着しましたが、そこへ米第13空軍のP-38とB-25の戦爆連合30機前後が来襲します。
この空襲による沈没船はなく船舶砲兵隊の奮戦によって数機を撃墜する戦果を挙げていますが、商船は銃爆撃でデリックや揚陸作業用に搭載してきた大発を破壊されてしまうという手痛い損害を受けたのです。
何とかオルモックに到着してみると、今度はマニラ~現地間の連絡不備でセブ島等に隠蔽していた大発の準備が間に合っておらず、揚陸作業に不可欠の大発が絶望的に不足しているという状況が待っていました。
船団のオルモック到着直後、第一師団の残部を連れてきた「第6号」「第9号」「第10号」の一等輸送艦が入泊して来ましたが、彼らも大発の不足で作業が滞っていました。
苦悩する輸送船団が解決策を模索している間、不意を打たれないように警戒隊の駆逐艦6隻は2隻ずつペアを組んで、泊地の外側を回って警戒を開始します。
オルモック付近には米軍の魚雷艇が日本軍の増援を阻もうと進出してきているのが察知されていたからです。
「朝霜」は「長波」と組んで3番隊を編成、ポンソン島の西側を担当しました。
案の定、10日0時半頃から米軍魚雷艇の気配が察せられました。
木村司令官は、スリガオ海峡での海戦の戦訓を汲み、米魚雷艇の通信機やレーダーが発する電波に聞き耳を立てさせていたのです。
接近してきたのは4隻、PT-492、PT-497、PT-524、PT-525でした。
この4隻の接近はそれぞれ「霞」「若月」の1番隊と「朝霜」「長波」たち3番隊が発見、砲撃によって撃退します。
米魚雷艇は魚雷によって日本軍艦1隻の撃沈を主張しているようですが、輸送船を直衛していた海防艦がオルモック陸岸に魚雷が命中したらしい数個の爆発を目撃しただけで、輸送船団には何の影響もありませんでした。
大発不足で揚塔作業が滞ってしまっていた輸送船の方は、仕方なく喫水の浅い海防艦を大発がわりにすることにし、人員を優先して作業を行なうことにします。
オルモックは水深が浅く、海防艦でも艦の前半分しか桟橋につけられませんでした。
陸兵はこの桟橋に飛び移ってレイテ島に上陸していきました。
しかしこのような状態では作業がスムーズにいくはずもなく、貴重な時間はどんどん過ぎていきました。
10日の夜が明けると、すぐに米陸軍機の空襲が始まります。
人員の大部分は揚陸することが出来たのですが、重装備類はほとんど揚陸できていませんでした。
明け方の空襲は味方戦闘機の上空直衛機がいて撃退してくれたので事なきを得ましたが、木村司令官は空襲下での揚陸作業は不可能と判断し、人員のみ揚陸を以て作業打ち切りを決心します。
10時半頃、揚陸作業を打ち切った船団はマニラへ向けて出発します。
そこへ30機程度のB-25が接近してきました。
各艦船は対空射撃を撃ち上げ数機を撃墜したのですが、「香椎丸」「高津丸」に爆弾が命中、「高津丸」は揚陸できなかった弾薬や燃料に引火し轟沈、「香椎丸」も航行不能になり漂流し始めます。
この他に「第11号」海防艦も大破航行不能に陥っていました。
空襲が止むと「霞」は三十一駆「朝霜」「長波」、そして「第6号」「第9号」「第10号」輸送艦を以て「香椎丸」生存者の救助を開始します。
「第11号」海防艦は「第13号」が救援、生存者を移乗させた後に砲撃処分、「高津丸」からは生存者を救助することが出来ませんでした。
残る「金華丸」は「沖縄」の指揮によって「潮」「秋霜」「若月」の護衛で先にマニラへ逃れます。
救難作業を終えた木村司令官はようやくオルモックを離れますが、夕方になって「朝霜」と「長波」に収容した遭難者を「霞」に移乗させました。
身軽になった「朝霜」と「長波」は、第四次船団の指揮下から分離するように命じられます。
「朝霜」と「長波」は、「若月」と一緒に第三次船団に合同することになっていたのです。
第三次多号船団には、第二十六師団の兵站部隊などが乗船していました。
船団の指揮は二水戦司令官の早川少将が執っていました。早川少将は第一次ソロモン海戦の際に第八艦隊旗艦「鳥海」の艦長を務めた人物です。
輸送船は「せれべす丸」「西豊丸」「泰山丸」「天昭丸」「三笠丸」の5隻で、第四次船団の3隻に比べるとかなり低速の船団でした。
輸送船を直接護衛していたのは「第30号」掃海艇と 「第46号」駆潜艇。
これに加えて間接護衛としての駆逐艦が、二水戦と一水戦、三十一戦隊の混成チームで、二水戦からは旗艦「島風」と「浜波」、一水戦から「初春」、三十一戦隊からは「竹」が参加していました。
ただ、ここに到着する前に「せれべす丸」が座礁して落伍、「第46号」駆潜艇が警戒に残されていました。
さて、「朝霜」「長波」「若月」の第三次船団への加入の代わりに、第三次船団から第四次船団へ「初春」と「竹」が移ることになりました。
この護衛艦の交代理由は明らかではありませんが、輸送作戦計画段階から交代そのものは予定されており、その時点では「朝霜」「長波」の三十一駆と「秋霜」が第三次船団に途中加入することになっていました。
恐らくは二水戦麾下の艦艇であったことから、原隊に復帰するという意味もあったと思われます。
しかし実際には「秋霜」が被爆損傷してしまっていたことから、合流が不可能となり「若月」がその代わりとなります。
こうして第三次船団は有力な対空兵装と速度を持つ大型駆逐艦を指揮下に組み入れました。
「朝霜」は再度、オルモックへと向かうことになったのです。
11日未明、オルモックに船団が接近すると、またも米魚雷艇が襲って来ます。今度はPT-321とPT-324のペアでした。
旗艦「島風」を始め「朝霜」たち警戒隊の駆逐艦は魚雷艇の接近に気付くと一斉に発砲を開始、魚雷艇を全く近寄らせません。
早川司令官は、煙幕を展張して逃げる魚雷艇を追跡するよう「朝霜」に命じ、「朝霜」は砲撃しながら追跡しますが、残念ながらこれは取り逃がしてしまいました。
撃沈こそ出来ませんでしたが追跡行動は無駄ではなく、逃走を焦ったPT-321は島に座礁、結局放棄されています。
船団は隊列を整えてオルモック湾への道を急ぎ、夜明け前後に目的地まで後一歩の位置まで迫りました。
しかしオルモック湾内に突入すると同時に、空母機の大編隊が船団の前に立ち塞がったのです。
350機あまりもの大兵力に抗するには、船団の戦力はあまりにも小さ過ぎました。
輸送船団は最早これまでと覚悟を決め陸岸に擱座しようとしたのですが、攻撃が開始されると4隻の輸送船は真っ先に狙われ、擱座する時間もなくたちまちのうちに全滅。
残る駆逐艦、掃海艇も目標となり次々と被弾、炎上していきました。
そんな中、「朝霜」だけは各艦が張った煙幕に飛び込み隠れながら奇跡的に雷爆撃を回避し続けます。
ところが煙幕から抜け出てしまったちょうどその時、急降下爆撃機の3機編隊に狙われてしまいます。
後方より迫る急降下爆撃機に対し「朝霜」は全力で回避をはかり、また後部機銃群が、次いで健在だった主砲が発砲を開始。
「朝霜」の対空砲火は3機のうち1機を粉砕することに成功しましたが残り2機は遂に投弾、なおも「朝霜」に肉薄、機銃掃射をかけて前方に駆け抜けていきました。
急降下爆撃機の機銃弾に続いて2発の爆弾が「朝霜」を襲いますが「朝霜」は回避、至近弾にとどめることが出来ました。
ですがその弾片が乗組員を襲い、マニラで乗艦したばかりの輿石砲術長代理に重傷を負わせるなど乗組員に被害を出してしまいます。
こうして傷つきながらも致命傷は避けていた「朝霜」は、上空の敵機がまばらとなって来るとようやく他の艦を顧みる余裕が出来ました。
杉原艦長は真っ先に二水戦旗艦の「島風」を探すように指示しますが、「島風」は既に行き脚を失い漂流していました。
「朝霜」は「島風」に近寄り生存者を乗り移らせようとしますが、「島風」に近寄る度にまだ滞空していた敵機の銃撃に阻まれてしまいます。
早川司令官は既に戦死しており艦長も重傷、「島風」の最先任であった二水戦の松原中佐はこの状況を見て「朝霜」に帰るように命じました。
この指示を聞いた杉原艦長は「島風」救援を諦め、松原先任参謀に別れを告げて「朝霜」を離したのです。
「島風」を諦めたものの、まだ三十二駆の司令駆逐艦「浜波」が浮いていました。
「朝霜」は機会を窺って、「浜波」に接舷を試みます。
ちょうどその時、上空に味方機が来援し、米軍機の注意を一時的にそらしてくれたお陰で、わずかな隙が出来たのです。
「朝霜」が5機を確認した味方機は、しかし多勢に無勢であっという間に蹴散らされてしまったと言いますが、その間に「朝霜」は「浜波」への接舷に成功、13時35分には三十二駆司令・大島大佐を含む「浜波」生存者269名を移乗させました。
遭難者で一杯になった「朝霜」はこれ以上の救難活動を断念、マニラに舳先を向けたのです。
このように第三次多号船団は壊滅的被害を受け、商船と船員、陸兵に甚大な損害を生じ、なおかつ今や数えるほどになった大型駆逐艦を一挙に4隻も失ってしまうという最悪の結末を迎えました。
「第30号」掃海艇も沈没しており、悲惨な屠殺場となったオルモックから逃れ得たのはまさに「朝霜」ただ1隻だけだったのです。
その「朝霜」も2日連続の激しい対空戦闘で機銃弾が全く底をついており、敵機に襲われたら最早抗す術を持っていませんでした。
「朝霜」はマニラへ急ぎ、12日朝に入港しました。
杉原艦長は遭難者救助の為に再度オルモックへ引き返すつもりだったようです。
しかしオルモックでの対空戦の傷跡は深く、「朝霜」は16名の戦死者を出し、この他に砲術長代理を含む46名もの重傷者を生じてマニラの病院に入院させることになります。
この状態での出動はとても望めませんでした。
その上翌13日、マニラが大空襲を受けてしまいます。
11月5日の際のように大規模な空襲で、港内に在泊していた艦船は輸送船、軍艦を問わず付け狙われ、次々と沈められていきました。
幸運にも「朝霜」は撃沈を逃れましたが、この日だけで「曙」「初春」「秋霜」、そして三十一駆の司令駆逐艦であった「沖波」も大破着底してしまいました。
「沖波」沈没により再び「朝霜」が司令駆逐艦となりますが、僚艦は別働中の「岸波」だけになっていました。
マニラにあった第五艦隊司令長官の志摩中将は、翌日の再空襲が必至と考え、マニラに艦艇を置いていては全滅すると南西方面艦隊司令長官大河内中将に進言します。
その進言が効いて、この夜「朝霜」は生き残りの駆逐艦と共にマニラを脱出することになります。
先日来の戦闘で生じた死傷者の抜けた穴は、先の捷一号作戦で擱座沈没した「早霜」乗組員から補充されました。
日付が14日に変わったばかりの0時20分、「朝霜」は「霞」「潮」「初霜」「竹」と共にマニラを後にします。
果たして日が昇ると米機動部隊による空襲が再開され、残っていた艦船はほとんど全滅同然となり、脱出が正しいことが証明されたのです。
「朝霜」たち脱出艦隊は新南群島を経由してブルネイ、シンガポールへと落ち延びます。
途中で「足柄」や「伊勢」「日向」といった第二遊撃部隊の主力と合同し、これを護衛しています。
その間、内地では駆逐隊の整理が行なわれ、「朝霜」は11月15日をもって三十一駆から二駆へ配属換えとなり、同時に二水戦から一水戦へと移動になりました。
ただ、この時期は艦艇の損耗が激しく、5日後の20日には一水戦は二水戦に名前を変える形で解隊し、「朝霜」は再度二水戦に配属が代わることになります。
「朝霜」が新しく編入されることになった二駆は、同じ「夕雲型」の姉妹艦「清霜」と2隻きりでした。
もっともこんな慌しい折ですから、「朝霜」に座乗していた三十一駆司令・福岡大佐が三十一駆に残る僚艦「岸波」に移る暇はなく、そのまま「朝霜」に残っていました。
福岡司令はリンガへ到着した22日、「岸波」へ移乗します。
「朝霜」はすぐにシンガポールへ移動、28日には久しぶりに入渠することができました。
リンガやシンガポール近辺はまだ米艦載機の脅威が及んでおらず、「朝霜」たち水上艦艇ががさほど心配せずに滞在することのできる久しぶりの場所だったのです。
「朝霜」はここでマニラ空襲の折に受けた損傷の復旧や整備を行なうことが出来ました。
12月6日、「朝霜」は「五十鈴」を護衛してシンガポールからスラバヤへ行くことになります。
「五十鈴」は三十一戦隊の旗艦として任務に服していたのですが、同戦隊を率いてマニラ進出の際に米潜の雷撃を受けて舵を失っていました。
シンガポールの第101工作部は「朝霜」たち第二遊撃部隊の修理・整備で手一杯になってしまったので、スラバヤの第102工作部で修理を行なうことになったのです。
ついでに物件輸送も頼まれた「朝霜」は、舵がないので航行に苦労する「五十鈴」を護衛しながらスラバヤへと航海を始めますが、出港したその日のうちに「五十鈴」の護衛を打ち切って第二遊撃部隊の停泊するリンガへ戻れという命令が来ました。
新たな作戦が始まろうとしていたのです。
第二遊撃部隊は南西方面艦隊の意向で、近いうちに開始が予想される米軍のルソン方面への進攻に備えることになりました。
このため仏印のカムラン湾への進出を命じらたのです。
二水戦司令官となっていた木村少将は、捷一号作戦以降に旗艦として常用していた「霞」が出払っているため、「朝霜」を旗艦に指定して乗り込んできました。
もっとも「朝霜」が探照灯の修理のためにシンガポールへ出かけている最中に、第二遊撃部隊はリンガを出発してしまい置いてきぼりを食ってしまいますが、すぐに追及して合同、14日にはカムラン湾に到着しました。
ちょうどこの頃、南西方面艦隊は第二遊撃部隊に対し、陸軍第四航空軍の偵察情報と自己の情報からミンダナオ海を西進する大船団の存在を通報してきました。
この船団はミンドロ島を占拠し、ルソン島攻略支援のために飛行場を設営するのが目的でした。
ただこの時点では、南西方面艦隊はこの船団の攻略目標がどこなのか判断しかねていました。
第二遊撃部隊はカムラン湾で補給、待機する予定でしたが、米陸軍機が偵察にやってきて発見されてしまったことから、一旦はカムラン湾に入港したもののすぐさまサンジャックへ移動します。
木村司令官はこの間に「朝霜」を下り、打ち合わせのために「大淀」へと将旗を移しています。
しかしその翌日、米上陸船団はルソン島のすぐ南にあるミンドロ島に上陸したのです。
ミンドロ島には日本軍の地上部隊はほとんどおらず、米軍は無血上陸してすぐに飛行場の設営を始めてしまいました。
連合艦隊は逆上陸を提案しますが、ルソン防衛の任を預かる山下奉文第十四方面軍司令官に兵力不足を理由に退けられてしまいます。
これに先立ち南西方面艦隊は20日、第二遊撃艦隊に対し、二水戦と巡洋艦をミンドロ島サンホセ地区への突入させよと命じます。
第二遊撃部隊の「日向」「伊勢」は、恐らく目立ちすぎるのといざというときの高速発揮に難があるためでしょう、作戦参加を見合わされます。
とは言え、二水戦の駆逐艦は護衛作戦のために分散してしまっており「清霜」と「朝霜」しか手許になく、戦力不足は明らかで、これを補うために直ちに「霞」を呼び戻し、また南西方面艦隊は直轄兵力である三十一戦隊から「松型」の3隻「杉」「樫」「榧」を貸与します。
命令を受けた第二遊撃部隊は23日、再度カムラン湾に進出し準備を整えます。
但し、当初予定されていた逆上陸そのものは現地陸軍との調整の結果消滅し、水上部隊による在泊艦船の撃滅と陸上目標への砲撃が主眼とされます。
なお24日の時点でのサンホセの状況ですが、飛行場は既に20日には発着可能となっていたので、P-38やB-25、P-61を擁する陸軍航空隊が進出を始めていました。
これら飛行隊の消費物資を追送する輸送船団が22日に現着、揚陸作業の最中というものでした。
また日本陸海軍の航空隊は、数少ない残存機から戦力を捻出し、連日連夜サンホセに対して空襲をしかけていました。
22日に南西方面艦隊より「礼号作戦」と名付けられたこのサンホセ突入作戦は、24日に開始されました。
突入予定は26日深夜。
礼号作戦参加部隊は、「霞」と二駆「清霜」「朝霜」、「松型」の3隻「杉」「樫」「榧」の駆逐艦6、「足柄」「大淀」の巡洋艦2隻です。
しかし今までの経緯からわかるように、礼号作戦部隊は寄せ集め部隊であり、合同訓練も何もなくほとんどぶっつけ本番に近い状況でした。
24日にカムラン湾を出撃した礼号作戦部隊は、早くも25日早朝には哨戒中の米潜水艦に発見されてしまいます。
木村艦隊は欺瞞航路を進んでいたものの、なぜか偵察機が確認にやって来る様子もなく、25日は平穏に過ぎました。
サンホセへほど近くなった26日夕刻になって初めて、哨戒中のPB4Yに発見されたのです。
それからしばらくして少数のB-25が同じく少数のP-38を伴って接近してきましたが、攻撃することなく艦隊の遠方を飛んでいました。
この編隊に向け、「朝霜」の僚艦「清霜」が少しだけ対空射撃を行ないますが、それきりでした。
そうこうしている間に日は暮れます。
20時少し前、今度は魚雷艇らしいものを発見します。
20時半、サンタクルズ沖に到着した木村艦隊は、ミンドロ島の陸岸沿いに南下を開始、サンホセを目指します。
やがて20時45分、ついに米陸軍機の攻撃が開始されました。
B-25が低空に下りてくると「朝霜」に爆撃をしかけたのです。
「朝霜」はこれを避けましたが、至近弾となります。
この攻撃以後、米陸軍機は夜間爆撃を試み始めました。
木村艦隊にとって好都合だったのは、米陸軍機が組織だった編隊攻撃をしかけてこないことでした。
木村艦隊があまりにも基地に接近してから発見されたため、米軍機は泡を食って出撃せざるを得ず、また味方航空機の頻繁な空襲で基地設定の進捗も遅れていたらしく爆弾の在庫自体不足していたようでした。
ただその分必死の銃爆撃が続き、木村艦隊の各艦は次々と被害を生じていきました。
21時15分には早くも「清霜」が爆撃を受けて大破、機械が止まって落伍してしまいます。
他にも「足柄」「榧」が低空攻撃を続けるB-25とP-38にそれぞれ激突されますし、「大淀」も不発弾でしたが2発の直撃弾(これが木村艦隊を発見した海軍のPB4Yと同一機による攻撃だった)を被っています。
「朝霜」も爆弾の直撃は免れていましたが激しい銃撃に晒され、全主砲が被害を受けてしまい、また弾火薬庫や水雷火薬庫にも機銃弾が飛び込み誘爆の恐れすらあった状況でした。
人員でも三番砲の砲員の半数が戦死、一番連管は要員に負傷者続出とひどい様相を呈し、作戦を通じて戦死3名、重軽傷者14名の被害を出してしまいます。
一方の魚雷艇の襲撃は比較的低調でした。
米魚雷艇は15日のサンホセ上陸時には23隻が進出してきていたのですが、瑞雲水上爆撃機に目の敵にされ次々と稼働数を減らし、26日は11隻が動けるだけになっていたのです。
その上沖合に出て積極的に襲撃するのを控え、サンホセ陸岸側で木村艦隊を待ち伏せする構えだったものが、暗夜の戦闘で米陸軍機から日本艦艇と誤認され、味方から執拗な銃爆撃を受ける立場になっていたのです。
同士討ちの結果、米魚雷艇は襲撃どころではなくなってしまってほとんどが脱落、木村艦隊は魚雷艇による攻撃を受けることなく作戦を遂行することが出来たわけです。
ちなみに、支援にやってきていた六三四空の瑞雲水爆が魚雷艇2隻を仕留めたと報告しているので、彼らの戦果である可能性もあります。
22時45分、木村艦隊は南下を止め反転北上、「足柄」の水偵に照明弾の投下を命じ、陸岸に接近して攻撃を始めました。
まずはマンガリン湾に潜んでいた米輸送船4隻を発見、これに対して砲雷撃戦を開始。
「霞」などは魚雷を発射できたのですが、「朝霜」は先刻の銃撃の被害によって発射が不可能になっていました。
確かに戦闘詳報には「朝霜」に魚雷発射の記録はありません。
ですが芦田航海長の回想によると、たった1本だけですが魚雷を発射したそうです。
航海長は、11月5日のマニラ空襲の折に魚雷発射を希求しつつ戦死した掌水雷長の意を艦長が汲んで発射を許したのではないか、と思い起こしています。
この攻撃で木村艦隊は米リバティ船を1隻大破、3隻に損害を与えます。
大破した船ですが、マンガリン湾はリバティ船が水面下に姿を消すほどの水深がないのですが、火災により再生不能と判断され放棄されたようです。
木村艦隊はその後も陸岸沿いを北上しながら照明弾を撃ち、適当な目標を見繕っては砲撃していきます。
「朝霜」も「霞」にならって物資集積所や飛行場に対して砲弾を送り込みます。
攻撃は27日の0時過ぎまでの約1時間に及び、久しぶりに一方的に撃ちまくる状況を体験できることになったのです。
木村艦隊は砲撃を終えると帰途につきますが、その前に「清霜」の救難をしなくてはなりませんでした。
木村司令官は「朝霜」と「霞」だけで救難作業を行ない、その他の艦は「足柄」艦長に任せて先に戻してしまいます。
「朝霜」は「霞」と共に「清霜」の姿を探しますが、見当たりません。
やがて1時前になって、「朝霜」はカッターが1隻浮いているのを発見します。
これは「清霜」のもので、どうも「清霜」は沈没してしまったようでした。
カッターの救助作業を始めようと「朝霜」が近づいてみると、付近の海面には泳いでいる「清霜」乗組員が大勢いたのです。
ちょうどその頃、「足柄」と「大淀」は米魚雷艇に襲われ、これを撃退しようと砲撃戦の真っ最中でした。
「朝霜」は機械を止めて本格的な救難作業に入り、「清霜」乗組員の救助作業は素早く進められ、木村司令官の旗艦「霞」も応援に駆けつけてきてくれたので、2時半には258名を救助することが出来ました。
この際、「朝霜」は「清霜」の梶本艦長と白石二駆司令を含む167名を救い出しています。
救助作業を終えると、先行する「足柄」以下を急いで追及します。
夜が明ければ再び空襲される恐れがありました。
また、レイテから有力な米巡洋艦戦隊が接近中との警報も受け取っており、これに捕捉されても困ります。
帰路、木村司令は電波の輻射によって位置を暴露するのを恐れたらしく、「霞」と「朝霜」の電探の作動を止めていました。
敵機の接近は逆探で察知しようという腹づもりだったようなのですが、4時前、「朝霜」はB-25による奇襲爆撃を受けてしまいます。
爆弾は幸い外れてくれたのですが、逆探では敵機のレーダー波を捕捉できないことを悟った木村司令はこれ以後電探を作動させっぱなしとし、探知されるよりも奇襲を受けないことを優先したというエピソードがあります。
朝9時、「朝霜」たちは先行していた「足柄」以下の艦隊に追いつき、合同することが出来ました。
復路も往路の時のように天候が悪化してきましたが、かえって米哨戒機の目から「朝霜」たち艦隊を覆い隠してくれる方向に働いてくれたようです。
電探はしばしば敵哨戒機の接近を告げるのですが、攻撃されることはありませんでした。
しかし夜10時、「朝霜」は突然魚雷攻撃を受けます。
敵潜水艦がいたのです。
米潜が狙ったのは「大淀」だったようですが、これは外れ、「朝霜」の方に向かってきたものでした。
「朝霜」の水測員は魚雷の航走音を捉えていたのですが、対潜学校で習った音と異なると感じて報告せず、結局見張り員が雷跡を見つけて回避しています。
ちなみに「大淀」でも水測員が魚雷音を捉え、こちらはすぐに報告して魚雷を回避できたということです。
「朝霜」は直ちに反撃に移りますが、天候が悪いために米潜の居場所を突き止めることが出来ずじまいでした。
後になって「霞」が応援に来てくれましたが事態は変わらず、それどころか先行した「足柄」が再度米潜の攻撃を受ける事態を招いてしまいます。
「足柄」には被害はなく潜水艦による攻撃もこれで収まったのですが、潜水艦が終ればまた飛行機ということで、対潜制圧を終えて本隊に合流しようとしていた「朝霜」が忍び寄ってきた米機の爆撃を受けます。
更に合同後も爆撃を受けるなどして、艦隊は油断の出来ない状況が続きます。
ここに至って木村司令は、高速が発揮できる「霞」と「朝霜」で「足柄」「大淀」を護衛して、一足先にカムラン湾へ行くことにしました。
艦隊としては早くカムラン湾に帰りたかったのですが、速度を上げると燃費が悪くなります。
しかし元来航続距離の短い「杉」「樫」「榧」はこの時点で既に燃料の残量が相当に厳しく、速度を上げるとカムラン湾に着く前に燃料が尽きてしまいかねませんでした。
艦隊として行動するのであればこの3隻の速度に合わせる必要がありましたが、こうまで執拗に追撃が続くようでは、と巡洋艦だけでも先に返すべきだという判断になったようです。
分離した「朝霜」たちは速度を上げ、28日の18時半にカムラン湾に到着することが出来ました。
「日向」「伊勢」などはカムラン湾から防空体制の整ったサンジャックへ移動しており、泊地は空っぽだったそうですが、木村司令官は残した3隻の到着を待つことにしました。
その3隻、「杉」「樫」「榧」は経済速度で航行を続けたので翌日の昼頃になりましたが、無事にカムラン湾に入港してきました。
礼号作戦部隊は3隻の燃料補給が終わるのを待ってサイゴンを出発、サンジャックで第二遊撃部隊本隊と合流し、昭和20年の元旦に堂々とシンガポールに入港しました。
礼号作戦は戦果こそ少なかったですが、制空権を掌握している米軍を向こうに回して、味方陸海軍機とよく連携し、損害を「清霜」だけに止めるなど上手く戦を運んだと言えるでしょう。
ですがこの程度の反撃では米軍の勢いは全く止まらず、昭和20年1月2日からルソン攻略戦団がレイテを出撃したのです。
シンガポールに錨を入れた「朝霜」は、しかし機銃掃射によるダメージが深刻でした。
礼号作戦では兵器にも相当な打撃を受けていたため、緊急の整備が必要でした。
また推進器のプロペラが曲がってしまっていて艦の振動が激しいという問題も抱えていたようです。
この推進器の破損ですが、資料では捷一号作戦時に損傷を受けたとなっていますが、今回の調査では具体的にどの戦闘で損傷を受けたのかは把握できませんでした。
シンガポールでドック入りした「朝霜」は、主機械の開放検査を行なうなど、外地ではあったもののそれなりの修理を受けられたようです。
この頃になるとシンガポールといえどインドからB-29の爆撃を受けており、全くの安全地帯ではないのですが、それでも乗組員にとっては久々の休養になったようです。
またこの間の1月4日、二駆は「清霜」を失って「朝霜」1隻になったために解隊が予定され、白石司令が1月4日に「朝霜」を離れています。
修理整備が終わった「朝霜」を待っていたのは、米軍のルソン島リンガエン湾への上陸の知らせと、第二遊撃部隊のリンガエン湾突入準備命令でした。
第二遊撃部隊はシンガポールに集結し、「日向」などでも艦長訓示が行なわれるくらい切迫した状況だったそうなので、恐らく「朝霜」艦上でも同じような風景が見られたのではないでしょうか。
輸送船団は情報では200隻を上回る規模の大集団で、第二遊撃部隊の残存勢力では如何ともしがたいことは自明の理でした。
ですがさすがに南西方面艦隊も考えを改め、最終的に突入作戦は中止となり、第二遊撃部隊は再びリンガ方面で訓練に従事することになります。
数少ない第二遊撃部隊を2つに分けて、対抗戦のような訓練を行なうこともあったようです。
2月5日、第五艦隊は解散されることになり、第二遊撃部隊の編成も解かれるという連絡があり、「朝霜」たち二水戦は第二艦隊に復帰することになります。
第二艦隊は依然として第一遊撃部隊を編成していましたが将旗は内地にあり、またリンガ在泊の旧第二遊撃部隊の各艦には重要な任務が待っていたことから、すぐさま第一遊撃部隊に組み入れられる事なく、暫定的に連合艦隊付属として扱われることになりました。
二水戦の司令官も交代となり木村少将に代わって古村少将が着任、また2月10日には予定されていた通り二駆が解隊、「朝霜」は二十一駆に編入となり、「初霜」と組むことになります。
組織上、人事上の改編の後に「朝霜」たちが取り組むことになっていた重要な任務とは、内地への回航でした。
しかもただ単に内地に回航すればいいという命令ではありませんでした。
既に南方資源地帯と内地との物資輸送ルートは完全に遮断されており、内地ではガソリンや希少金属といった戦争継続に必要な戦略物資の在庫が尽きかけていました。
これを補うため、1月には「南号作戦」という大規模な輸送作戦が展開され、なけなしの輸送船が次々と本土を目指しましたが、多くは途中で米潜や米軍機に捕捉され積荷と共に海没してしまっていて、内地に還送できた物資は期待したほどではありませんでした。
第二遊撃部隊も「南号作戦」の支援という立場にあったのですが、何かを積極的に成すだけの戦力ではありませんでした。
ですが、「伊勢」「日向」「大淀」の3隻はいずれも同級艦よりも航空機運用に大きなウェイトを置いた艦であり、その為に後甲板に巨大な格納庫を持ち、ガソリン用タンクも有していました。
連合艦隊はこの構造に目をつけ、ガソリンや錫、タングステン、水銀、そしてゴムなどを大量に搭載し、高速の重武装輸送艦として内地まで強行突破させようと考えたのです。
可燃物を満載することになった大型艦3隻の面々は、爆弾の一発でも命中すれば誘爆で沈没するのではないかと非常に危惧していたようです。
また南号作戦の惨憺たる結果から、この計画を知った者の過半がこの回航艦隊の前途を危ぶんでいたようです。
「朝霜」は二水戦の1隻として「霞」「初霜」と共に3隻を護衛することになりましたが、狭い駆逐艦にもゴムや錫などを積み込むことになりました。
回航艦隊は夜を徹して作業を行ない、9日までにシンガポールにて物資の搭載を終えると、翌10日、内地へ向けシンガポールを出発しました。
この強行突破作戦は「北号作戦」と命名され、参加する6隻は「完」部隊と呼ばれることとなります。
作戦の遂行に当たって、南シナ海、東シナ海における敵潜水艦の待ち伏せ攻撃と、中国沿岸からの米陸軍機の空襲が大きな脅威でした。
特に潜水艦からの攻撃を警戒した艦隊は、なるべく大陸岸に沿った接岸航路で日本本土までたどりつこうと計画していました。
しかし戦後になって分かったことですが、南シナ海、東シナ海には、日本の戦略輸送ルートを絶ち切ろうと英米の潜水艦が何隻も待ち構えており、「完」部隊の回航ルート付近にあった潜水艦だけでも20隻を超えていたのです。
シンガポールを発した「完」部隊は、翌11日に早くも浮上潜水艦(恐らく英潜)に接触され、12日には米哨戒機に接触されます。
米哨戒機は離れることなく接触を続け、このままでは空襲されることは間違いない状況でした。
カムラン湾沖を通って海南島へ向かおうという13日、遂にP-51に護衛されたB-24、B-25の100機以上の大編隊が来襲したのです。
しかし「完」部隊は、折り良く現れたスコールに逃げ込むことが出来ました。
米攻撃隊は攻撃の機会をうかがって付近を遊弋していたのですが、やがてあきらめて引き返していきました。
更に昼過ぎには米潜水艦に捕捉され雷撃されてしまいます。
見張り員による雷跡の発見が早く回避に成功したり、米潜が魚雷の射程ぎりぎりから発射したため魚雷が届かなかったりと、被雷こそ免れたのですが、乗組員たちの神経がすり減らされる事態が続きました。
海南島を過ぎて台湾へ向かっていた翌14日にもB-24、B-25の米陸軍機が再度攻撃にやって来ますが、スコールの傘はまたも「完」部隊を覆い、彼らは空しく引き上げていくことになりました。
これでフィリピンを起点とする米陸軍機の空襲圏を脱した「完」部隊は、米潜水艦の襲撃をも逃れ、19日夜半に関門海峡を通過、1隻も欠けることなく無事に呉に到着しました。
このように危急の場面でその都度スコールに助けられたこと、また米機動部隊が硫黄島攻略作戦の支援で多忙だったことなど、いくつもの幸運が重なったが故の成功でしたが、絶望視されていた「完」部隊の内地帰還はまさに奇跡と賞されたのです。
内地に戻った「朝霜」は第一遊撃部隊の指揮下に復帰、そのまま呉に腰を落ち着け、そこで整備・訓練に励みます。
しかし内地ではリンガと異なり燃料が非常に逼迫していたため、極力艦を動かさないで済む訓練方法に終始していました。
3月19日の呉空襲でも損害を受けることなく無事でした。
「朝霜」は待たされ続けたドック入りがようやく可能となり、23日に呉の第四船渠に入渠して整備を始めることが出来ました。
第四船渠は駆逐艦1隻だけで使うにはとても大きく、同時に「初霜」「冬月」が同じ船渠に入って整備を受けます。
ところが沖縄への米機動部隊接近の報により極めて緊迫した局面を迎えます。
第一遊撃部隊は米機動部隊を九州方面に誘致し味方航空部隊の攻撃を有利に運ぶため、呉から佐世保へ移動することを命じられたのです。
出撃を全く予想していなかった第一遊撃部隊司令部は驚き、急いで麾下の艦艇を集結させることにします。
入渠整備中の各艦も慌てて工事を打ち切り、出渠することを余儀なくされました。
あるいはこの命令がなければ、「朝霜」の運命は多少違ったものになった可能性もありました。
3月28日、集結を終えた第一遊撃部隊は呉から広島湾へ移動、29日には更に三田尻沖へ進出します。
この移動の最中、「響」が触雷してしまいます。
この機雷はB-29が夜間敷設した機雷でした。
「響」は一時航行不能となるほどの損傷を受け、「朝霜」は「響」を呉まで曳航するように古村司令官から命じられます。
呉の近くまで曳航すると港の曳船に後を託し、「朝霜」は20時半には三田尻沖にて第一遊撃部隊に合同しています。
結局のところ米機動部隊が本土を空襲するために自ら九州方面に進出してきたので、第一遊撃部隊による誘致の必要性は消え、佐世保回航は取り止めになりました。
ですが4月1日に沖縄へ米軍が上陸を開始、陸海軍航空部隊による大規模な特攻作戦の開始が決定されるなど極度に緊迫した局面を迎えたため、再度のドック入りが考慮されることはありませんでした。
やがて運命の4月5日を迎えます。
その日の午後、突如として、連合艦隊から第一遊撃部隊に対し沖縄突入命令が下されたのです。
命令を受けた第一遊撃部隊は、直ちに不要物件の陸揚げや燃料・弾薬の搭載などの出撃準備を慌しく始めました。
ところが「朝霜」は反対に「霞」に自らの燃料を移し、更に残りを「大和」に譲るように指令を受けます。
「初霜」もまた「矢矧」への燃料移載が指示されていました。
連合艦隊の命令に記された使用兵力は、「大和」と「矢矧」、それに駆逐艦が6とされていたからでした。
この時点では、「朝霜」と「初霜」の2隻は残留させられる予定だったのです。
第一遊撃部隊が兵力不足を訴えた結果、翌朝になって連合艦隊は正式に駆逐艦2隻の追加を許可してきました。
兵力追加の内諾を得ていたらしい第一遊撃部隊は、5日のうちに「朝霜」「初霜」に対し、徳山で燃料を満載して艦隊に合同するように命令を出しています。
徳山で搭載することになった燃料は、「北号作戦」で「完」部隊、つまり「朝霜」たち自身が輸送してきたものであったと言われています。
こうして4月6日、「朝霜」は第一遊撃部隊の一翼を担って出撃することになったのです。
「朝霜」は第二十一駆逐隊の司令駆逐艦として、小滝司令が座乗していました。
小滝大佐は3月27日に前任の石井大佐と交代して着任したばかりで、北号作戦の際は奇縁にも「朝霜」が護衛した「伊勢」の副長を務めていた人物でした。
艦長は代わらず杉原中佐がその座にありましたが、実は既に転出の内示があり後任者が決まっていたにもかかわらず、今回の任務の内容から留任を申し出て出撃したと言います。
やがて16時半から二水戦の各艦は「大和」を目標にして襲撃訓練を行ないました。
それまで燃料不足で動くこともままならなかった二水戦が久々に行なった魚雷襲撃訓練であり、これによって各駆逐艦は士気を非常に高めることが出来たと言います。
そしてこれが帝国海軍最後の水雷戦隊による襲撃訓練になってしまったのです。
豊後水道を抜けて翌7日、雲が低い中を特攻部隊は南下を続けます。
二水戦は「大和」を中心に輪形陣を組み、「朝霜」は「大和」の左前方に占位【注1】します。
ところが6時57分と記録されていますが、「朝霜」は機関故障の旗旒信号を掲げて落伍し始めてしまいました【注2】。
艦隊速力は約18ノットでしたが「朝霜」は12ノットしか出ない様子で、みるみる距離が開き、11時頃には第一遊撃部隊の視界外に消えてしまいました。
11時59分、「朝霜」は13時頃に故障が直る見込みである旨を無線で知らせてきます。
しかしその直後の12時08分、敵艦上機の発見を知らせてくると、2分後には敵機と交戦中と告げてきました。
ちょうどその時、まだ対空戦闘が始まっていなかった「冬月」が「朝霜」が交戦中であるらしい砲煙を認めたと記録しています。
そして12時21分、「九〇度方向ニ敵機三〇数機ヲ探知ス」という電文を発します。
結果としては、この電文が日本側が把握する「朝霜」の消息を示す最後のものとなってしまいました。
その後、12時40分から始まった激しい空襲によって、海上特攻隊は甚大な打撃を被ります。
第一遊撃部隊は「大和」「矢矧」「浜風」「磯風」「霞」を失い、沖縄特攻作戦は中止されます。
生き残った艦は生存者を救助し、翌日佐世保軍港へ戻りました。
しかし「朝霜」の姿は佐世保には現れることなく、生存者もまた誰一人として戻ることはなかったのです。
15時ちょうどに十七駆司令が発した電文では「朝霜」は行方不明として報告されており、戦闘詳報にも「消息不明、船体沈没と推定する」と記録されています。
小滝司令と杉原艦長を含む326名全員が後日戦死と認定されました。
「朝霜」の最期は、日本側の誰一人として確認することが出来なかったのです。
集中攻撃を受けた「大和」ですら総員戦死を免れ、他の沈没艦艇の生存者と共に「初霜」「冬月」「雪風」の3隻に拾われて生還を遂げています。
「朝霜」も機関故障さえなければ、終局的には同じ沈没という最期を迎えていたとしても、沈没海面が特定できたために救助を差し向けられた可能性は高く、機関故障は「朝霜」とその乗組員の運命に大きな影響を与えたことになります。
戦後になって米軍の戦闘記録が公開されてくると、「朝霜」の最期の様子が次第に明らかになってきました【注3】。
日本では原勝洋氏の研究によって概ね全容が明らかになって来ています。
「朝霜」を襲ったのは、米空母「バンカーヒル」を発した攻撃隊でした。
日本艦隊を攻撃するタイミングを図って待機中であった「バンカーヒル」の急降下爆撃隊は、1隻だけ落伍していた日本駆逐艦を偶然発見し、爆撃を開始したのです。
「朝霜」は4波にわたる攻撃のうち3回までを切り抜けたものの、4波目の爆撃で一挙に3発の命中弾を被ってしまったのです。
前部煙突後方と二番連管後方、艦尾付近に被爆したとされる「朝霜」は火災を起こし、行き脚を失ったそうです。
この時の「朝霜」の姿が写真に残されています。
海面にはおびただしい量の重油が漂っており、3基の砲塔は全て左舷側を指向、前部煙突の後方に激しい火災を生じている様子が見てとれます。
連装砲塔が3基装備されている駆逐艦は、海上特攻隊の8隻どころか、この時期の日本駆逐艦の中では「朝霜」だけですから、撮影日時に間違いがなければ「朝霜」以外に有り得ません。
この後、米空母「ホーネット」の艦爆が更に攻撃、艦尾付近に命中弾を与えたのが致命傷になったようです。
恐らくは水雷火薬庫に直撃を受けたか誘爆したのではないでしょうか、三番砲の後方から大爆発を起こし、艦尾から沈没していきました。
戦後、昭和40年頃になって「朝霜」の遺族会の活動によって、静岡県三島市の山中にある閑静な寺院である妙法華寺に大きな慰霊碑が建立されました。
その傍らには、後に巡洋艦「愛宕」、駆逐艦「梅」の慰霊碑も建立されます。
「朝霜」によって救われた「愛宕」の戦友会が「朝霜」慰霊碑の建立を聞いて傍らに建てた、と由来が記されています。
慰霊碑の前には山桜の巨木があり、この春(2004年)にも見事に花をつけていました。
【注1】
海上特攻隊の輪形陣は現在、2~3通りのものが伝えられています。
天一号作戦海上特攻隊戦闘詳報に書かれたもの、戦後の手記で書かれたものなどが存在します。
今回参考にした文献も意見が分かれており、どれが正確なものであるか判別が付きません。
ただ、「朝霜」の位置が「大和」の右か左の前方に在ったことは確かなようです。
【注2】
「朝霜」落伍の原因となった機関故障の原因についてははっきりしたことがわかりません。
天一号作戦海上特攻隊戦闘詳報にはこの点が詳しく考察されています。
まず「朝霜」からの信号報告として、左舷巡航タービン減速装置の温度が上昇、巡航タービンを離脱するためには5時間を要する応急作業が必要となった、と症状が書かれています。
また巡航タービン減速装置は「あ号作戦」以来不調であったらしいことが書かれています。
ですがニ水戦司令部は、独自に情報を収集して考察した結果、減速装置そのものの故障ではなく嵌脱接手部(クラッチ)が焼きついてしまったか何かによる故障であろうと判断しています。
「朝霜」が機関関係に問題を抱えていたというエピソードそのものは多く存在し、故障癖があったという説すらあります。
しかし「機関」という大雑把な括りで語られることが多いのも事実です。
前出の芦田航海長は「台湾で空襲を受けて以来機関の調子が悪かった」と述べていますが、「朝霜」に台湾への寄港の事実はないので、マニラにおける空爆を指しているものと思われます。
そして確かに捷一号作戦時の空爆によってプロペラスクリューが屈曲、振動が甚だしいので修理したいという報告は存在します。
他にも捷一号作戦で出撃直前にボイラーの水管が破裂した事故も生じています。
また既述の通り、巡航タービン減速装置が「あ号作戦」以来異音を発していたことが書かれています。
これらの既知の問題は、しかしシンガポール及び呉での修理、整備によって解消されていたものと思われます。
また、海軍造機部の持つ艦艇の機関関係の故障履歴には、「朝霜」のタービンに関する故障報告はなく、機関の特定部位に「癖」と言われるほど頻繁な故障があったという説については裏づけが取れませんでした。
従って、沖縄戦の際に焦点となった減速装置、及び嵌脱接手部の故障については既知の問題ではない新出の問題と推定します。
なおニ水戦司令部は戦闘詳報の中で、「朝霜」幹部が機関整備に熱心でなかったとし、これが機関故障の遠因を成すというような口調で厳しく指弾しています。
が、当時の幹部を知る芦田航海長はこれを否定しています。
人事面から見れば、艦長など主要職員が交代する時期であったようで、幹部職員が多忙であった可能性も捨てきれません。
その「朝霜」にしても内地に戻ったのは昭和19年の7月以来で、内地のドックで本格的に機関の整備を行なうのは、調査した範囲内では就役以来初めてであったようです。
これらの状況からすると、「朝霜」の機関のコンディションはベストであったとは思えない状況です。
ちなみに沖縄突入前の時点では、二水戦は全ての艦が何らかの整備上の問題を抱えており、「朝霜」は二水戦の中では最も早期に入渠できた恵まれた艦でした。
但し、その際一緒に入渠した2隻をはじめ、艦隊の誰もが第一遊撃部隊の出撃がないと考えていた点には留意する必要があるだろうと感じます。
特に急ぐ必要もない上に日程半ばでドックから出ることを強いられる状況で、既知の問題がなかった部位の隅々まで入念なオーバーホールを期待するのは、戦争という非常時であったとは言え難しいものがあったのではないでしょうか。
【注3】
「朝霜」の沈没状況についても、米海軍の主張する時刻に疑問を投げかける主張があります。
研究家である阿部三郎氏が追跡中のテーマですが、その著書「特攻大和艦隊」にこの説が書かれています。
それによれば4月7日当日、海防艦「屋代」は先日来出されていた掃海の任務から佐世保へ帰投する途中でした。
「屋代」は「大和」と遭遇し、お互いに信号のやり取りをしつつすれ違ったそうです。
問題はその後、「屋代」がもう1隻の駆逐艦と遭遇したと主張する乗組員がいたことです。
その駆逐艦こそ「朝霜」であり、航行不能ではあったものの乗組員の士気は高く、「屋代」側の曳航の申し出を断り、甲板上に散乱している機銃の薬莢を片付けていたというのです。
時刻は13時過ぎと記憶しているそうで、もしこれが事実であれば従来説よりも長い時間海上にあったということになります。
ただ「屋代」乗組員でも「朝霜」との遭遇を覚えているのが1名のみということで、現時点では従来説を覆すほどの根拠を持っていないようです。
なお「朝霜」の最期の様子は、現在二通りのものがよく引用されています。
一つはラッセル=スパー氏の「戦艦大和の運命」(新潮社)に描かれたもの、もう一つが原勝洋氏の調査によるものです。
前者は「朝霜」撃沈を米空母「サンジャシント」隊によるものとしています。
後者は「朝霜」撃沈を米空母「バンカーヒル」「ホーネット」隊によるものとし、「サンジャシント」隊の沈めたのは「浜風」であるとしています。
本稿は後者の説に拠っています。
どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違えてるのかも知れませんが、双方の著作を読む限りはどちらも説得力があり、筆者には判別がつきませんでした。
略歴 | |
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昭和18年 1月21日 | 藤永田造船所にて起工 |
昭和18年 5月25日 | 命名 |
昭和18年 7月18日 | 進水 |
昭和18年11月27日 | 竣工 第1艦隊・第11水雷戦隊に編入 |
昭和18年11月29日 | 呉着 |
昭和18年12月 2日 | 呉発、柱島着 |
昭和18年12月 3日~ | 訓練 |
昭和18年12月30日~ | 呉~横須賀にて、「山城」護衛任務(12月31日横須賀着) |
昭和19年 1月 4日~ | 横須賀発、柱島回航(1月5日柱島着) |
昭和19年 2月10日 | 第2艦隊・第2水雷戦隊・第31駆逐隊に編入 |
昭和19年 2月26日~ | 宇品~サイパンにて、安芸丸船団護衛任務(3月6日サイパン着) |
昭和19年 3月20日~ | 館山~トラックにて、東松3号特船団護衛任務(3月28日トラック着) |
昭和19年 4月14日~ | リンガ着、以後同方面にて整備、訓練 |
昭和19年 5月11日 | リンガ発、タウイタウイ回航(5月19日タウイタウイ着) |
昭和19年 6月13日 | タウイタウイ発、ギマラス回航(6月14日ギマラス着) |
昭和19年 6月15日~ | ギマラス出撃、あ号作戦に参加(6月22日中城湾着) |
昭和19年 6月25日 | 柱島着 |
昭和19年 6月27日~ | 呉にて入渠(7月3日出渠) |
昭和19年 7月 8日~ | 呉発、シンガポール回航(7月16日シンガポール着) |
昭和19年 7月19日~ | リンガ着、以後同方面にて整備、訓練 |
昭和19年10月18日~ | リンガ発、ブルネイ回航(10月20日ブルネイ着) |
昭和19年10月22日~ | ブルネイ出撃、捷一号作戦に参加(10月25日ブルネイ着) |
昭和19年10月25日~ | ブルネイ出撃(10月27日ブルネイ着) |
昭和19年10月29日~ | ブルネイ発、マニラ回航(10月31日マニラ着) |
昭和19年11月 5日 | マニラにて対空戦闘 |
昭和19年11月 8日~ | マニラ出撃、多号作戦(第四次船団)に参加(11月9日オルモック着) |
昭和19年11月10日~ | 多号作戦(第三次船団)に編入(11月11日オルモック着) |
昭和19年11月12日 | マニラ着 |
昭和19年11月13日 | マニラにて対空戦闘 |
昭和19年11月14日~ | マニラ発、リンガ回航(11月22日リンガ着) |
昭和19年11月15日 | 第2艦隊・第2水雷戦隊・第2駆逐隊に編入 |
昭和19年11月28日~ | シンガポールにて入渠(12月5日出渠) |
昭和19年12月12日~ | シンガポール発、カムラン湾回航(12月14日カムラン湾着) |
昭和19年12月24日~ | カムラン湾出撃、礼号作戦に参加(12月28日カムラン湾着) |
昭和20年 1月 2日~ | シンガポールにて入渠(1月8日出渠) |
昭和20年 1月11日~ | リンガ着、以後同方面にて整備、訓練 |
昭和20年 2月10日~ | 第2艦隊・第2水雷戦隊・第21駆逐隊に編入 シンガポール出撃、北号作戦に参加(2月20日呉着) |
昭和20年 3月19日 | 呉にて対空戦闘 |
昭和20年 3月23日~ | 呉にて入渠(3月27日出渠) |
昭和20年 4月 6日~ | 徳山沖出撃、天一号作戦に参加 |
昭和20年 4月 7日 | 天一号作戦に従事中、坊の岬沖にて空襲により沈没 |
昭和20年 5月10日 | 類別等級表より削除 第21駆逐隊解隊 除籍 |
2004.05.17改訂
2004.05.23改訂
2007.11.25改訂