解説
「椎」は、通称「マル戦計画」で「改丁型」として計画された32隻の駆逐艦の1隻です。
仮称艦名を「第4811号艦」とされたこの駆逐艦は、舞鶴海軍工廠において昭和19年9月に起工、同年12月には「椎」と命名されます。
舞鶴工廠では三交代制の昼夜兼行で工事を行ない、起工から半年後の昭和20年3月13日に竣工しました。
もっとも、艤装中に検査をした時には一番砲の俯仰角を伝える電線があべこべに結ばれていて、ハンドルを回すと俯仰が逆になっていたというエピソードも垣間見られ、当時の生産現場の状況を端的に物語っています。
「椎」は同日付で新造艦の訓練部隊である第十一水雷戦隊に編入、原隊の所在する呉への回航を命ぜられます。
しかし「椎」が臨むべき戦局は、既に非常に切迫していました。
前年のフィリピン攻防戦において連合艦隊はその水上戦力の大部を失い、航空戦力も弱体化著しいものがありました。
南方資源地帯からの資源還送ルートはもとより、本土周辺海域の制空・制海権すら米軍に奪われている状況です。
マリアナに展開したB29は、3月10日から東京、名古屋、大阪など大都市部に対する焼夷弾爆撃を開始。
硫黄島は栗林兵団による組織的な抵抗も終わりを告げ3月に失陥、米軍の沖縄への上陸は時間の問題でした。
このような状況下ですから、海軍指導部は、沖縄上陸作戦の鍵を握る米空母機動部隊の動向に非常な注意を払っていました。
そして入手した各種の情報から、ウルシーで待機していた米空母部隊が出撃したものと警戒、17日朝には九州に展開する第五航空艦隊に警報を発します。
案の定、米機動部隊は日本近海に接近しており、18日から九州~中国地方への空襲を開始したのです。
「椎」は3月19日に舞鶴を出港する予定でしたが、発電機に不具合を生じ出発を延期しました。
この日、呉は米艦載機群による攻撃を受けており、「大淀」中破など在泊艦艇に多少の損害を出しています。
米機動部隊は19日午後には南下離脱を開始し、翌20日の午前中を最後に空襲は止みました。
その20日に単艦舞鶴を出港した「椎」は21日に下関を通過します。
この1週間後の27日夜、下関海峡にはB29によって機雷が投下されており、「椎」は微妙なタイミングで触雷を免れていたことになります。
瀬戸内海に出た「椎」は22日、徳山にて重油を補給。
ところがせっかく搭載したこの重油が不良品で、塵埃が大量に混入していたために重油の積み替えを余儀なくされ、予定が更に遅れてしまいました。
徳山から八島錨地に移動した「椎」は、同じ新造艦の「萩」「梨」と合流します。
「萩」「梨」とはこの後長くつきあっていくことになります。
26日、「椎」は合流した2隻と共に八島を出発、夜に呉に到着し十一水戦と合同します。
呉に入った「椎」の乗組員を圧したのは、軍港の入り口近くに碇泊している「大和」の偉容でした。
呉には十一水戦の他、臨戦態勢にあったこの戦艦「大和」以下の第二艦隊が在泊していました。
28日、呉には空襲警報が出たようですが、「大和」については小艇や航空機によって煙幕が展帳され覆い隠されたと言います。
一方で呉軍港奥に碇泊した「椎」ら小艦艇に対しては特に何の措置も採られなかったようです。
この後すぐ、「椎」は呉に入渠することになりました。
工事目的は不明ですが、残工事があったか、もしくは機銃の増設工事であると思われます。
4月1日を期して米軍は沖縄に上陸を開始。
天一号作戦は既に発動されており、沖縄沖に展開する米機動部隊に向けて陸海軍の航空部隊が盛んに特攻機を出撃させていました。
瀬戸内に残る連合艦隊の残存水上部隊の動きも慌ただしくなってきます。
1日、本来は訓練部隊で実施部隊ではない十一水戦が、実施部隊である第二艦隊の隷下に編入されます。
6日、「大和」を基幹とする第一遊撃部隊が沖縄への突入の為に出撃。
この海上特攻には「椎」も参加する可能性があったのですが、他の十一水戦、三十一戦隊所属艦と同じように練度不足を指摘され、部隊に加えられることはありませんでした。
残留した十一水戦と三十一戦隊、その他少数の艦艇は待機部隊を編成、「大和」と共に戦地に赴いた第二艦隊長官の指揮下を離れ、連合艦隊長官直率となります。
「椎」は待機部隊の中の、十一水戦を基幹としていた第二部隊に編入されました。
任務は基本的には訓練でしたが、特令が出された場合は戦闘に参加というものでした。
しかし出撃した第一遊撃部隊は米機動部隊の邀撃により「冬月」らを残して壊滅、米機動部隊は連日の航空特攻にも拘わらず依然として健在でした。
沖縄の陸上戦闘も好転の兆しがなく、連合艦隊が企図した逆上陸作戦もきっかけすらつかめない有様で、待機部隊に対する出撃の特令は発令されないまま日を重ねることになったのです。
4月20日、「大和」を失った第二艦隊は解散され、十一水戦と三十一戦隊は再び連合艦隊付属となります。
それでも待機部隊という立場は変更されないままでした。
特令がない場合の待機部隊の任務は訓練でした。
ですが艦を動かそうにも燃料重油の在庫は極めて限定された状態であり、頻繁な出動訓練は望むべくもない状況でした。
更に問題になったのは、B29による機雷敷設でした。
B29は、下関海峡を最重点にして、呉、広島などに航空機雷を投下していったのです。
掃海部隊が直ちに増強され掃海任務に就きましたが全てを掃海することは出来ず、この頃「響」を始めとして多数の艦船の被害が発生しています。
それでも「椎」については4月から5月前半にかけて3の回出動訓練が行なわれ、ある時は十一水戦旗艦・軽巡「酒匂」に、またある時は「夏月」に率いられ対空射撃訓練や砲雷撃訓練に従事、来るべき日に備えていたのです。
5月20日、「椎」は十一水戦から除かれ第四十三駆逐隊に編入されました。
この時の四十三駆は「竹」「槙」「桐」「榧」「蔦」から成っており、三十一戦隊の麾下にありました。
同時に待機部隊は解散、三十一戦隊の大部と「夏月」「北上」「波風」を以て新たに海上挺身部隊が編成されることになります。
同日付で三十一戦隊の編制に加えられた「椎」も海上挺身部隊の一員となったわけですが、この新部隊の任務は邀撃奇襲作戦輸送と定められていました。
ここで海上挺身部隊のことについてもう少し詳述します。
海上挺身部隊に与えられた任務とは、通常は内海西部に待機し戦力の温存を図り、いざ本土決戦となった場合は邀撃作戦や作戦輸送に就くというものでした。
具体的には、人間魚雷回天の搭載を念頭に置いた任務です。
敵攻略部隊が接近した場合は夜間に瀬戸内海を飛び出し、まず水上回天戦を行ない、更に自己の魚雷を以て夜戦に臨むという計画でした。
隠密行動に不適な水上艦艇を回天戦に参加させざるを得ないほど、戦局はどうしようもないところまで来ていたのです。
作戦輸送の中身ははっきり明記されていませんが、恐らく上陸正面もしくは隣接する回天基地に対する回天の緊急輸送を指すものと推定されます。
いずれにせよ上陸船団迎撃の中心は回天、震洋、蚊龍などで編成される海軍突撃隊であり、マルレ艇を装備する陸軍海上挺身隊であり、水上艦艇にはほとんど期待されていませんでした。
編成時の海上挺身部隊の兵力は以下の通りです。
海上挺身部隊(指揮官:三十一戦隊司令官)
第三十一戦隊
旗艦 「花月」
第四十一駆逐隊 「冬月」「涼月」「宵月」
第四十三駆逐隊 「竹」「槙」「桐」「榧」「蔦」「椎」
第五十二駆逐隊 「杉」「樫」「楓」「楡」「梨」「萩」
「夏月」(5月25日、第四十一駆逐隊に編入)
「北上」「波風」
合計、軽巡1、駆逐18。
このうち四十一駆の「涼月」は沖縄特攻の際に大破行動不能、本修理は行なわないとされて戦力から除外、「冬月」は沖縄特攻以来佐世保に腰を据えたまま動かず、更に四十一駆そのものも5月25日には海軍総隊命令によって対馬海峡部隊に編入されてしまい、強力な砲装を持つ「秋月型駆逐艦」はほとんど手元に残らないことになりました。
しかも、そもそも三十一戦隊固有の部隊のうち最も高速で強力な雷装を持つ十七駆の「雪風」「初霜」は海上挺身部隊には編入されませんでした。
海上挺身部隊の艦艇は回天搭載機構を持たない艦がほとんどでしたが、回天発射試験の写真で有名な「北上」(回天搭載数8基)や、「波風」(同2基)は既に回天搭載機構を備えていました。
「椎」を含めその他の艦は6月から順次、呉工廠にて回天搭載設備を増設されていくことになります。
ともあれようやく正規の駆逐隊の一員となった「椎」は、まずは同じ四十三駆僚艦との編隊航行に慣れる必要がありました。
6月5日、四十三駆の訓練に参加した「椎」は、四十三駆2番隊3番艦として、隊の殿を航行していました。
豊後水道を航行していた時です。
右舷側の至近距離で水中爆発が起きました。
B29が敷設した機雷でした。
記録では、B29は豊後水道に対し終戦までに各種合計90個の機雷を敷設したことになっていますが、そのうちの1つに触雷してしまったのです。
触雷した「椎」は主機に問題が発生したようで戦闘航海は不可能、片舷低速航行で直ちに呉に引き返し修理を受けることになりました。
調査の結果損害は意外に大きく、キングストン弁開閉不能、補機台にクラックが入り、揚錨機や四式射撃装置も破損していたことが判明します。
このため、「椎」はしばらくの間戦列を離れることを余儀なくされたのです。
呉工廠の岸壁に繋がれた「椎」は修理作業に着手します。
「椎」と同じ日に触雷した「宵月」も「椎」と同様、呉の岸壁に繋がれて修理されていました。
やがて「椎」は機関桟橋にて主機の解放修理作業に入ります。
この頃の呉工廠では艦船の建造は潜水艦以外は既にほぼ停止しておりただ小型艦艇の修理のみ、巨大なドックや工場の中では回天や蚊龍などの水中兵器が製造されており、特攻機と言われるキ-115の転換生産も計画されていました。
6月22日朝、呉工廠に空襲警報が発令されます。
その直後からB29による激しい空襲が始まったのです。
市街地爆撃と異なり呉工廠の完全破壊を狙っていた米軍は、B29に焼夷弾ではなく1トンクラスの大型爆弾を搭載してきました。
一波去ってはまた一波と、B29は午前中の間、20分という間隔で波状爆撃を加えていきます。
目標となったのはドックではなく、造兵関連の施設の集まる地区でした。
岸壁に繋がれたままの「椎」は既述のとおり主機の解放修理中であり動くことが出来ません。
艦上から見上げていると、B29の投下する爆弾が次々と自分の上に落ちてくるように見えたそうです。
狙いが外れて1トン爆弾が命中でもしようものなら、「椎」のような駆逐艦など1発で真っ二つになってしまいます。
事実、「椎」の近くにあった団平船が至近弾を受け真っ二つになり、工廠の起重機操作室の上まで跳ね上げられるという光景が展開されています。
港内にあった各艦艇は高角砲によって反撃しましたが、ほとんど効き目はありませんでした。
「椎」は高角砲を分解していて反撃できない状態だったようです。
B29の狙いは正確で、おかげで空襲が終わるまで「椎」は被爆を免れました。
しかし呉工廠の造兵地区は総計1000トンあまりの爆弾の洗礼によって再起不能の大打撃を受け、ここに潰滅したのです。
工廠内で勤務していた女子挺身隊に多数の犠牲者が出たことは在泊艦船の乗組員の耳にも届きました。
この白昼の爆撃は、マリアナより発した第58航空団および第73航空団のB29、192機によるものでした。
更に7月1日深夜から2日未明にかけて、B29の大編隊が呉市街に対して爆撃を行ないます。
呉工廠に対する爆撃と同じく、マリアナを発した第58航空団のB29、166機が1000トンあまりの爆弾を投下したのです。
爆撃方法は正反対で、多数機による短時間の集中爆撃でした。また使用した爆弾も100ポンド焼夷弾と500ポンド集束焼夷弾でした。
焼夷弾による爆撃で、呉市街は大部分が焼き払われ、壊滅的な損害を被ってしまいます。
市街に対する空襲の様子は、港内に停泊中の各艦からもよく見えました。
夜間、投下された爆弾が火を吹きながら落下していく様子が見て取れたと言います。
在泊艦船も発砲可能であればこれに対抗しましたが、効果は限定されていました。
今度は「椎」も発砲しましたが、効果は不明です。少なくても1機の撃墜を確認していますが、どの艦、あるいは陸上砲台の戦果か不明です。
修理を終えた「椎」は引き続き回天搭載設備の増設工事を行ないます。
回天搭載設備の概要は、後甲板中心線上に爆雷投射機をまたぐ形で鉄製架台を設け、更に艦尾水線上にスロープを溶接するというものでした。
木製の台に回天を載せ、架台から滑り落とす形で発進させるのです。
また搭載できる回天は各艦1基のみでした。
このように、先行して工事を受けた「北上」や「波風」の本格的な設備とは異なり、「椎」などの艦の設備は仮設の色合いが強いものでした。
四十三駆の僚艦は既に6月中に回天搭載設備の増設工事を終えており、「椎」もこれを追うような形で工事を終えました。
工事成った「椎」は海上挺身部隊に再び合流することになります。
ですが「椎」が修理中の6月16日、海上挺身部隊に対して偽装命令が出ていました。
それに従い四十三駆は7月3日、修理中の「椎」を残して屋代島の日見海岸と柳井に移動、ネットを被って息を潜めることになります。
このため「椎」は四十三駆の僚艦と行動を別にし、回天発射訓練に従事することになりました。
四十三駆の中では唯一回天戦の訓練が不足しており、同じく訓練未了の五十二駆と共に訓練を命ぜられたものと推定します。
7月に入り回天搭載の装備が整った五十二駆は、回天を装備する第二特攻戦隊との合同訓練に臨みます。
第二特攻戦隊は呉鎮守府部隊に所属し、元来第一特別基地隊という名称で呼ばれていた回天の機材、作戦、運用の研究部隊でした。
搭乗員の訓練も受け持っており、いわば回天の総本山とでも言うべき部隊です。
第二特攻戦隊の隷下には、大浦、光、平生の各突撃隊が存在し、このうち光、平生突撃隊が回天を装備する突撃隊でした。
それまでも潜水艦発射や基地装備の回天の目標艦としてしばしば協力していましたが、今回は駆逐艦からの発射実験でした。
各駆逐艦は自力で回天を搭載することは出来ませんでした。
従って回天を搭載する際は回天基地で作業を行なう必要がありました。
7月中旬からは五十二駆の「梨」が回天発射実験担当艦、その後22日からは「椎」が担当艦となり、平生沖にて第二特攻戦隊との合同訓練を行ないました。
この際、「椎」と合同訓練を行なったのは五十二駆の「萩」「梨」「樺」(7月15日「楡」と交代で五十二駆に編入)でした。
回天の発射の際は、ストッパーを外してからロープで艦首方向に引っ張ってやらないと架台から滑り降りなかったそうで、惰性のつきにくい短い発射台しか持たない駆逐艦からの発射はなかなか難儀だったようです。
また発射時には駆逐艦は高速で直進するよう定められているのですが、実際に発射すると回天は着水時のショックによる機器の損傷や、駆逐艦のプロペラ後流や艦尾波によって翻弄され姿勢制御が困難であるなど、問題が山積していました。
回天の襲撃目標としても行動していたのが海上挺身部隊の駆逐隊なのですが、駆逐艦の乗組員が実際に艦上から回天の様子を見ていると、発見までに時間はかかるが潜望鏡を発見してしまえばその後の針路が把握でき、速度も思いの外遅かったと回想しています。
回天側からの回想を覗いてみても、航行艦への襲撃訓練は大変難しかったようで、しばしば目標艦の前方を横切ってしまった(要するに命中せず)という記録も残っています。
命中と判定されるには、回天は目標艦の艦底を通過しなくてはいけませんでした。
この襲撃訓練の際は訓練的を用いますが、実用頭部の代わりに同じ重さに調整された訓練用頭部を装着したもので、実際に駆逐艦に激突するわけにはいかないので深度もやや深めに調整していました。
訓練中は事故も起きたようで操縦ミスの他、機材に起因する事故、例えば回天が射点沈没を起こしたり大偏射を起こしたりして行方不明になることもありました。
回天発射実験中の7月24日、呉地区に空襲警報が出ました。
この日西日本全域にわたって米機動部隊が艦載機を放ったのです。
最大の目標の一つが、呉に在泊する日本海軍残存艦隊でした。
呉軍港は数波にわたる波状攻撃を受け、戦艦「伊勢」「日向」「榛名」を始め多数の大型艦が損傷し、付近の市街も流れ弾を受けて惨憺たる様相を呈します。
平生沖で訓練中であった「椎」たちにも攻撃がありました。
「椎」ではP51、13機と戦闘したと記録されています。
確かに当日米陸軍機も多数が攻撃に参加していますが、艦載機をP51と見間違えた可能性も捨てきれず、その正体は判然としません。
「椎」は当日の空襲により戦死2名、重傷11名の犠牲を出してしまいますが、訓練は続けられます。
翌25日も呉地区に対して空襲がありましたが、散発的で規模も小さいものでした。
訓練中の海上挺身部隊もまた対空戦闘を行ない、撃墜を記録しています。
しかし「椎」は24日の対空戦闘後に偽装隠蔽の命令を受けたようです。
正確な日時は判然としませんが、「椎」は屋代島の日見崎(と思われる)に単独で繋留、偽装しています。
偽装要領は特にこれと言った定めもなく、各艦の裁量に依っていたようです。
「椎」では「陸軍の戦車のような迷彩塗装」(元乗組員の証言による)を施し、マストには松の枝などをつけていたと言います。
残る五十二駆はまだ訓練に従事することになっていました。
一方の米機動部隊ですが、燃料補給のため日を置き7月28日、再度大規模な空襲を仕掛けました。
今度は小型機のみならず、B24などの大型機をも伴った空襲でした。
「伊勢」「日向」「榛名」など24日の空襲でも沈没しなかった戦艦、巡洋艦は29日の空襲によって着底してしまいました。
「椎」はこの日、島影に碇泊して隠されていた為、空襲は免れることが出来ました。
その中で航行中であった「梨」が敵機につかまり、激しい戦闘の末撃沈されてしまいます。
「梨」が被弾した時のものと思われる黒煙が「椎」艦上から島越しに見えたそうです。
7月30日、連合艦隊長官より呉鎮守府長官に対し、海上挺身部隊に搭載する回天の用意を指示する命令が発せられます。
これによると回天25基を準備し、搭乗員は各回天訓練突撃隊の教官教員を充当することとなっていました。
30日時点での海上挺身部隊の兵力ははっきりとした資料は残っていませんが、第七艦隊に編入されていた「宵月」が戻って来ており、「梨」を失っているので、準備基数の回天25基は海上挺身部隊の現有戦力と一応は合致します。
もっともこの時点で「花月」に回天搭載設備があったかどうかについては強い疑問があり、数合わせに過ぎないことは断っておきます。
こうして本土決戦への緊張感が高まってきていたところへ、8月1日深夜、有名な大島誤報事件が発生します。
海上挺身部隊の各艦にも即時待機の命令が下され、出撃準備が開始される騒然とした雰囲気に包まれたそうです。
が、やがて誤報である旨が周知されました。
この混乱と相前後して、「椎」に呉の防空任務に就くように指示が来ます。
米機動部隊による呉空襲で主要な在泊艦が撃破されてしまい、防空砲台が不足したためです。
このため「椎」は一度施した迷彩を慌ただしく軍艦色に戻します。
「椎」は「萩」ともう1隻(艦名不詳)の3隻で軍港内に三角陣を組み、警戒任務についたのです。
この頃になると毎朝8時半ごろにP38などの米軍戦闘機の二機編隊が定期便でやってきて、軍港内の適当な目標を見繕っては機銃掃射していったそうですが、反撃すると必ず執拗な再反撃を受けるので積極的な対空射撃は控えられていたようです。
更に8月6日朝、艦内にいた乗組員は大音響を耳にし、艦上にあった乗組員は閃光を目撃します。遅れて爆風も届きました。
広島の方向にみるみるうちに巨大なキノコ雲が立ち上っていきます。
広島に原爆が投下された瞬間でした。
すぐにはその正体がわからなかったのですが、後に白い服を着用し肌を露出しないようにとの特殊爆弾対策が連絡されてきたそうです。
矢継ぎ早に繰り出される米軍の攻撃に対し、呉在泊艦は為す術がありませんでした。
そして8月15日を迎えます。
正午に放送された玉音放送を聴けなかった乗組員も多かったそうです。
気がついたら停戦命令が出ていた、という状況だったのでしょう。
ある乗組員は「その夜、呉の山腹で焼け残っていた民家に明かりが灯っていたのが印象的であった」と回想しています。
戦が終わったという現実を、灯火管制を解除され漏れ出た生活の灯に鋭敏に感じ取ったのでしょう。
こうした感情を抱いたのは一人や二人ではなかったようです。
しかし敗戦の報に納得できない一部航空部隊は呉に抗戦を呼びかけるビラをまき、翌日には第六艦隊の潜水艦が八幡大菩薩の幟をはためかせて抗戦を叫び、呉在泊の「椎」やその僚艦に同調を呼びかけたり、搭載している小銃の譲渡を要請してきたりしました。
水上艦艇の乗組員は敗戦の事実に対し比較的肯定的だったと言われますが、「椎」もまた抗戦の呼びかけに応じることはなく、小銃の譲渡要請には砲術長が頑としてこれを拒んだそうです。
「椎」は停戦後も呉に在泊し、そこで武装を解除されることになりました。
瀬戸内で偽装していた馴染み深い三十一戦隊の僚艦たちも続々と呉に戻ってきました。
「丁型」や「改丁型」の駆逐艦は1つのブイに2隻並んで繋留され、静かにその日を待つことになりました。
軍艦旗降下式を経て10月5日(?)、「椎」は帝国駆逐艦籍から除籍されたのです。
ほとんど戦闘らしい戦闘を経験することなく、駆逐艦「椎」は戦闘艦としての役務を解かれたのです。
そして戦時は中止されていた舷側の艦名記入も復活されることになりましたが、それはカタカナではなくアルファベットによる記入でした。
「椎」では間違えて「シイ」とカタカナで書き記してしまい、「SHII」と書き直す羽目になったそうですが、この手の間違いは何も「椎」に限らず何隻かの僚艦でも発生していたそうです。
しかし「椎」の航跡はここでは終わりませんでした。
そのわずか20日後の10月25日、「椎」は四十三駆の僚艦と編隊を組み呉を出港します。
行き先はマニラ。
戦争中、「椎」は一度も外地に出たことはありません。敗戦後に初めて外海に出たのです。
外地からの陸海軍将兵引き揚げのためでした。
敗戦のショックはショックとして、同胞の引き揚げは緊急の課題でした。
正式に特別輸送艦に指定されたのは12月1日のことなのですが、それより前に現実は動いていました。
「丁型」や「改丁型」は、計画ではおおよそ150名ないし200名を運ぶことになっていました。
最初の目的地マニラとの往復を終えた四十三駆はその後単艦行動となり、それぞれが任務を果たすことになりました。
「椎」は翌昭和21年12月13日に佐世保に帰ってくるまで、内地~沖縄間輸送も含めると20回以上も輸送を続けたのです。
昭和21年12月21日、役目を終えた「椎」は特別保管艦に指定されました。
「椎」は賠償艦として連合国に引き渡されることになったのです。
引き渡し先は、連合国間の抽選の結果、ソ連に決まりました。
「椎」は対ソ第1回目の引き渡しの組に含まれていたのです。
賠償引渡艦は既に佐世保に集結していました。
昭和22年7月1日朝の8時、佐世保港外に待機していた対ソ第1回引渡艦の群れは、錨を巻き上げ、航行を始めました。
「椎」と同じ組でソ連のナホトカへ向かうのは、四十三駆のかつての僚艦「榧」、歴戦の「響」、海防艦「占守」「34号」「105号」「196号」「227号」の7隻。
これに、回航員を日本へ連れ帰る特務艦「荒埼」を加え、総勢9隻の艦隊でした。
各艦に翻るのは軍艦旗ではなく日章旗。
引渡地であるナホトカへのこの航海が、「椎」の日本艦としての最後の航跡でした。
日本海は霧が非常に濃く航行に難渋するほどでしたが、事故もなく7月4日ナホトカに入港することが出来ました。
ナホトカ入港の際、在泊のソ連艦が日本艦隊に対して軍艦旗を半降する敬礼を行なったと言います。
そしてその日のうちにソ連側の受け入れ要員が乗艦。
回航員たちはシベリア抑留の話を聞きつけておりかなり警戒していたと言いますが、海軍同士の間柄ではそれも杞憂だったようです。
翌7月5日、ナホトカ湾内において引き継ぎの仕上げとして出動訓練を行なうと、いよいよ引き渡しの時を迎えました。
日本人回航員たちは日章旗を降下、退艦。
こうして「椎」は、ソ連に国籍を移していったのです。
戦争中は戦局が既に悪化しきっていたこともあり、竣工しても活躍らしい活躍は何も出来なかった「椎」ですが、戦後復興の礎となる復員輸送に1年あまりも従事できたことはそれを補ってあまりある成果と言えるでしょう。
本稿は「椎」元乗組員の方の多大なるご協力によって完成しております。
また「回天」関係の記述については、奥本剛氏の協力を得て書かれております。
皆様にはこの場を借りて御礼申し上げます。どうも有り難うございました。
略歴 | |
---|---|
昭和19年 9月18日 | 舞鶴工廠にて起工 |
昭和19年12月 8日 | 命名 |
昭和20年 1月13日 | 進水 |
昭和20年 3月13日 | 竣工 第11水雷戦隊に編入 |
昭和19年 3月20日~ | 舞鶴発、呉着(3月26日着) |
昭和19年 3月26?日~ | 呉入渠(出渠日不明) |
昭和20年 4月 7日 | 呉発、八島着 |
昭和20年 4月18日~ | 八島発、出動訓練(4月19日八島着) |
昭和20年 4月25日~ | 八島発、出動訓練(4月26日八島着) |
昭和20年 5月10日~ | 八島発、出動訓練(5月11日小積着) |
昭和20年 5月14日 | 小積発、呉着 |
昭和20年 5月20日 | 第11水雷戦隊・第43駆逐隊に編入 |
昭和20年 6月 5日 | 豊後水道にて訓練中、触雷。損傷 |
昭和20年 6月 7?日~ | 呉工廠にて修理、及び回天搭載設備工事(期間不詳) |
昭和20年 6月22日~ | 呉軍港にて呉工廠空襲に遭遇 |
昭和20年 7月 1日~ | 呉軍港にて呉空襲に遭遇、B29に対し対空戦闘(~7月2日) |
昭和20年 7月22日~ | 第二特攻戦隊と合同で回天実験発射訓練(~7月24日) |
昭和20年 7月24日 | 回天発射訓練中、米軍機の攻撃により損傷 |
昭和20年 7月25?日 | 屋代島日見崎南側付近にて偽装、隠蔽 |
昭和20年 7月29?日 | 日見崎発、呉着 |
昭和20年10月 5?日 | 除籍 |
昭和20年10月25日~ 昭和21年12月13日 |
復員輸送に従事 |
昭和20年12月 1日 | 特別輸送艦(舞鶴地方復員局所管)に指定 |
昭和21年12月21日 | 特別保管艦に指定 |
昭和22年 7月 5日 | 賠償艦としてナホトカにてソ連に引渡 |
2003.01.13改訂
2007.12.02改訂