謎のこらむ・すぺしゃる
黎明期の対艦航空攻撃
爆撃機 対 戦艦
by 新見 志郎
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たまたま当工廠の掲示板で「水上機による雷撃」が話題になった際、志郎さんが掲示板に小連載を投稿してくれました。
これはその時の連載を基に、志郎さんにお願いして加筆修正していただいたものです。
掲示板での話題が「雷撃」だったため、連載内容も「爆撃機対戦艦」というよりは「雷撃機事始め」という主題になっていますね。
元の連載は2001年1月24日〜2001年1月26日に3回に分けて投稿されています。
志郎さん、どうもありがとうございました。
但し、各章のタイトル「初めの一歩」「明日への一歩」などは、文章の体裁を考慮して管理猫である私、じゃむ猫が勝手につけました。ご了承ください。
なお感想などございましたら、新見 志郎さんに直接お送りいただくか、私宛てに送っていただければ志郎さんに転送いたします。
それでは、はじまりはじまり。
爆撃機対戦艦・Bombers vs Battleships by David Hamer より
水上機とツエッペリン飛行船から多数の爆弾が投下されたけれども、一発も命中していない。イギリス軍艦からも対空砲火が打ち上げられたが、これもまったく当たらなかった。
小競り合いの結果、イギリス海軍を覆っていた航空攻撃への恐怖感は払拭され、艦隊司令は報告書で、『通常の海象状況であれば、我々がドイツの水上機や飛行船を恐れる理由は何もない』と書いている。
1915年8月12日、飛行隊長エドモンズ Charles Edmonds は、マルモラ海において5,000トン級の貨物船を発見する。降下した彼は、300ヤード (270メートル) の距離で、高度14フィート (4.3メートル) 以下から魚雷を発射、狙い違わず命中させた。大きな爆発が起こり、貨物船は沈没したとされる。
しかしながら、これは完全な事実ではなく、この貨物船は、攻撃された時すでに潜水艦による砲雷撃で撃破され、擱坐した状態だったようだ。それでもエドモンズは、空中投下魚雷が有効な兵器であることを立証した。また、彼が実戦において初めて、この種の攻撃を行ったという事実が覆されるわけではない。
五日後、エドモンズは航行中の蒸気船を攻撃している。この船は大破したが、辛うじてコンスタンチノープルへたどり着いた。同じ日、別のイギリス軍水上機が同様の攻撃を試みたものの、エンジン不調に見舞われ、マルモラ海上への不時着を余儀なくされている。
これに挫けなかったパイロットは、水上で機体をタキシングさせ、大型の曳船を発見して接近し、水上状態のまま魚雷を発射して、見事にこれを撃沈している。水上機は重いペイロードを落としてしまったことで離水でき、2マイル (3.5キロメートル) も滑走した後だったが、空へ戻ることができた。
より強力な攻撃機ソッピース・クックー Cuckoo が開発され、1917年6月に実戦部隊へ参加した。グランド・フリートの新司令長官ビーティは、これをヴィルヘルムスハーフェンのドイツ艦隊攻撃に用いようと企画する。これらは8隻の商船改造航空母艦に設けられた発進用甲板から飛び立つものとされた。ビーティは、本土水域から飛び立つ飛行艇に支援される、各々40機のクックーからなる3波の空襲を希望した。
クックーを搭載した母艦は、およそ1時間の飛翔距離である、ヴィルヘルムスハーフェンから100浬ほどのところまで進出し、魚雷攻撃を終えた機体は、装備する機銃によって次の攻撃隊を支援し、風下になるオランダ沿岸の浅瀬で待機する母艦へ戻る計画とされた。
ビーティは、この攻撃を航空機の準備ができしだいに行いたいと考え、1918年春にこれを希望した。しかし海軍省は、ダンケルク付近の海軍航空機基地に雷撃機を配備する障害になるとして、これを認めなかった。
9月25日、ビーティは海軍省に宛て、航空機は軍艦から運用されるべきだという意見書を送っている。要求はあっさりと却下されたものの、1918年4月までにソッピースの雷撃機100機が供給されると発表された。
ビーティの提案では、航空機と船舶の供給に問題はなかったが、それぞれの能力には疑問があり、甲板への着陸 (着艦) のテクニックに簡単ではない困難を抱えていた。このような企ては、チャーチルとフィッシャーの政権だったからこそ有り得たのであって、1940年タラントでの企てでは、成功こそしたものの、規模はずっと小さくなっている。
これに続く6週間、ドイツ軍の攻撃は戦果を得られなかった。それらの中では、武装ヨット『ダイアナ』 Diana によって2機の水上機が撃墜されている。そのうちの1機のパイロットの発言は、後のパイロットへの示唆に富むものだった。
「復座機をあてがわれたと思ってくれ。上層部はこう要求するだろう。カメラを積め、機関銃もだ、爆弾も、無線機も必要だろう、そして今度は魚雷をぶら下げていけときたもんだ。真っ直ぐにそーっと飛ばす以外、何ができる?」
次に成功した攻撃は、6月半ばに行われた。船はハリッジ沖で、3,000ヤード (2,700メートル) もの距離から発射された魚雷によって撃沈された。7月上旬には5機の水上機が船団を攻撃したけれども、成功していない。その晩、他の水上機2機が、サウスワルドの東で攻撃を行っている。このうちの1機は撃墜され、これを見たもう1機のパイロットは、勇敢というか無謀というか、近くへ着水して同僚を救助しようとしたのである。見事に救助には成功したのだが、重くなった機体は飛び上がれず、武装トローラーに接近された水上機の乗員は、降伏するしかなかった。
この後二月ほど、ドイツ軍の航空攻撃は鳴りをひそめていたが、9月になって、7機の水上機が小型蒸気船を発見した。7発の爆弾と2本の魚雷が襲いかかり、たった264トンの小船は2分で沈んでしまう。
ドイツ軍はこの戦果に満足したが、これで十分とも考えなかった。そして、突拍子もない計画を始めたのである。
彼らの手元にある、水素で浮いている大型の飛行船にとって、軍艦を魚雷攻撃できるほどに接近するのは、あまりにも危険に過ぎた。そこで、魚雷を積んだグライダーを開発したのである。ツェッペリン飛行船にぶらさげられて空に上がったグライダーは、切り離された後、親飛行船から有線で操縦され、適宜な位置で魚雷を発射するのだった。飛行船『L17』は、1917年にこのグライダーを積んでいる。
しかし、この計画を実現するには、当時の技術水準はあまりに幼稚であり、とうてい成功など望めなかった。
1918年1月、この2隻はダーダネルス海峡から出撃した。インブロス島のイギリス海軍モニターと、レムノス島のムドロス湾を砲撃する予定だったのである。この両島は、イギリスの占領下にあったのだ。
モニターはたちまち撃沈されたが、2隻のドイツ艦は触雷によって傷つき、『ゲーベン』は僚艦を曳航しようとするものの、イギリス軍航空機の空襲を受け、『ブレスラウ』が更なる触雷をしたために救助を放棄して撤退した。
帰路、『ゲーベン』はなお2発の機雷に当たり、大きく傾斜して速力が発揮できなくなった。ドイツ海軍司令官は作戦を中止し、ダーダネルスへ引き上げていく。イギリス軍は、これに執拗な航空攻撃を加えた。最初がインブロス島から出撃した前述の2機である。
『ゲーベン』は、海峡内で防潜網をかわす時に航法を誤り、ナガラの湾曲部で座礁してしまう。すでに発進していたイギリス軍の水上機2機は、キャメル戦闘機の護衛を受けて攻撃を始めたけれども、援護に出てきた10機のトルコ軍水上機によって撃退され、攻撃は失敗した。
1月20日、4機が爆撃したものの命中させられず、翌日に行われた4波の攻撃も、わずかに112ポンド (50キログラム) 爆弾1発を命中させえたにすぎない。さらに二日間、戦闘機の援護のもと、昼夜にわたって攻撃が行われたが、強力な防御対空砲火に阻まれて有効な攻撃ができなかった。この中では攻撃機が1機撃墜されている。
ようやくムドロスへ到着した空母『アーク・ロイアル』 Ark Royal が、14インチ魚雷とショート水上機による攻撃を企てるものの、この旧式機はエンジン出力が足らず、魚雷を積んで飛び立つことができなかった。さらに1月24日、空母『エンプレス』 Empress が加わり、さらに翌日、より重要な空母『マンクスマン』 Manxman が到着する。
これは、18インチ (46センチ) 魚雷を装備できる新型機2機を搭載しており、期待は膨らんだ。しかし、主に天候が理由で攻撃は遅れ、モタモタしているうちに1月26日、『ゲーベン』は離礁に成功し、コンスタンチノープルへ引き上げてしまう。
このイギリス海軍航空隊の攻撃は、6日間200回にも及び、全部で15トンの爆弾が投下されている。魚雷は用いられず、わずかに爆弾2発が命中しただけで、損害は取るに足りないものだった。ほとんど徒労とも言える攻撃だったのである。
第一次大戦における航空攻撃は、特に洋上においては効果が少なく、1隻の軍艦も沈めていなければ、大破させたものもない。商船でも、沈めたのは数えるほどである。艦船に対する航空攻撃は、労多くして益少なく、見合わない戦術と認識された。
おわり