謎のこらむ・その4


夢の超兵器!

闇に葬られた「無線誘導魚雷」顛末

2004.02.05 初出

鷹は舞い降りた!

今回は「海軍水雷史」からも見放され、なかったことにされてしまった日本海軍の秘密兵器「無線誘導魚雷」の話です。
何を今さら知っていますよという声があちこちから聞こえそうですが、まぁ知ってる人は我慢して聞いたって下さい。
舞台は、当工廠にしては珍しく日露戦争時代です。

当時、日本海軍は頭を悩ましていました。
。。。来る、奴が来る!
そう、帝政ロシアの切り札、バルチック艦隊が着々とその歩を日本に向けて進めていたのです。
日露両国間の戦争は明治37年2月8日、駆逐隊による旅順口夜襲にて火蓋が斬って落とされていました(仁川の魚雷発射ってどういう扱いなんだろう?)。
日本海軍は専らロシア太平洋艦隊の撃破に心血を注ぎ、陸軍の協力を仰ぎつつ同年12月17日、旅順にて戦艦セワストーポリの無力化を最後にそれを達成することが出来ました。
ですが、それに先立つ10月15日、ロシアのリバウ港を大艦隊が発していました。
この艦隊こそ、ロジェストウェンスキー露海軍中将率いる第二太平洋艦隊、元のロシア・バルチック艦隊でした。
ロジェストウェンスキー提督の引っ提げる戦艦7、巡洋6、駆逐8の勢力は、当時の日本連合艦隊よりも強力でした。
ロシア海軍はこれに加えて更に戦艦1を基幹とする第三太平洋艦隊を増援として差し向け、両者は当時フランス植民地であったベトナムにて、明治38年2月に合流しました。
これによってますます彼我の戦力差は広がったのです。

対する日本海軍は艦艇の整備を進める一方、海軍大将(明治37年6月大将に昇進)東郷平八郎を先頭に猛訓練に打ち込み、これを迎え撃つ準備を怠りませんでした。
ただ地の利はあるとは言え数的な劣勢は覆うべくもなく、また進路の決定権はロジェストウェンスキー提督の掌中にあり、決戦の実現を危ぶむ声があったのも確かです。
そんな事情からか、日本海軍はある新兵器の購入を急いでいました。
ですが、その新兵器を携えた男は、日本海海戦にて東郷艦隊がロジェストウェンスキー艦隊を粉砕した翌年、明治39年になってからやってきたのです。
さぁ、大風呂敷を広げた割には話が小さくなって参りました(笑)


その男、発明家につき。。。

日本にやって来たのは、アメリカ人発明家シムス君でした。
このアメリカ人、トンデモ兵器として一部で超有名なあのダイナマイト砲(Sims-Dudley Dynamite gun)の発明者です。
ちなみにダイナマイト砲はちゃんと実戦で使用されていますので、「ト」扱いしてしまうのは心苦しいのですが、まぁそこはホレ(笑)
で、この男の発明を日本海軍は買おうというのです。
彼の新発明は無線誘導魚雷でした。
夢の必中魚雷です。
日本海軍はこれを陸上から発射して、海峡を通過する敵艦船を攻撃しようと目論んでいたようです。

さて、当時の魚雷事情ですが、いわゆる冷走魚雷と呼ばれたものがほとんど全てです。
冷走魚雷とは、今日と同様やっぱりスクリュープロペラによって推進するのですが、その動力が燃料や電池が動力ではなく圧搾空気でした。
日露戦争で日本艦隊が用いた魚雷もこの冷走魚雷だったと言われています。(実は記録が残ってないらしい)
と言っても射程距離はたかが知れていて、例えば三〇式18インチ魚雷(オーストリア・ホワイトヘッド社製)は最大でも3000メートル程度(雷速は14ノット程度)でした。
だから日本艦隊は射距離300とか600で発射した(その距離だと雷速は27ノット程度まで上がる)ようです。

また、今日では魚雷というものは船や潜水艦、飛行機が艦船に向けて撃つものというイメージが強いですが、日露戦争の頃ではまだ海岸砲台と同じく陸地から艦船に向けて撃つという運用が重要視されていました。
日本でも三四式18インチ魚雷(オーストリア・ホワイトヘッド社製)が海峡防御用として163本購入されていて、日露戦争では紀伊水道の防備用に配備されたという記録があります。
この魚雷の射程距離は20ノットで3500メートルとなっていて、陸地からの運用を考慮して射程が長くなっていることが読み取れます。
もちろん、その分余計に圧搾空気を積まねばなりませんから、艦載魚雷よりやや長さがありました。
以下に日露戦争に間に合った(と思われる)魚雷の要目一覧を掲げておきます。
参考までに、有名な九三式酸素魚雷の要目も入れておきます。

兵器名称 製造所 直径 全長 炸薬 雷速 射程
三○式B型 墺国保社
呉工廠
14in(36cm) 4.572m(15ft) 52kg 26.9kt
22.0kt
11.6kt
600m
800m
2,500m
三○式18in 墺国保社 18in(45cm) 5.0m 100kg 27.0kt
23.6kt
14.2kt
800m
1,000m
3,000m
三二式14in 保社 14in(36cm) 4.572m(15ft) 50kg 27.0kt
23.0kt
12.0kt
600m
800m
2,500m
三二式18in 保社 18in(45cm) 5.0m 90kg 28.8kt
25.5kt
14.6kt
800m
1,000m
3,000m
三四式18in 墺国保社 18in(45cm) 6.5m 90kg 27.0kt
20.0kt
2,000m
3,500m
三七式18in 呉横佐工廠 18in(45cm) 5.0m 100kg 25.5kt
15.5kt
1,000m
2,000m
九三式1型 呉工廠 24in(61cm) 9.0m 492kg 48.0kt
40.0kt
22,000m
32,000m
出典:海軍水雷史


舶来の最新技術を我が掌中にっ!

話を元に戻して、シムス君を迎えた日本海軍は、頭に「超」がつくほど大マジでした。
「特別自動水雷審査受領委員会」という大仰な名前の委員会が組織されたことからして日本海軍の期待度が垣間見えます。
委員長は当時の水雷校長木村少将でした。
シムス君が持ってきた発明品はさっそく組み立てられ、試験に供されることになったのです。

操縦は山の上から無線でもって指示を出しました。
魚雷は張り出し空中線で電波を受信し、指示を行動に転化します。
指示の種類は起動、半速、全速、面舵、取舵、停止の6種類を実現できることになっていました。
動力は、当時スタンダードだった圧搾空気です。
要するに、普通の冷走魚雷に無線誘導装置をくっつけただけ、ということになります。

しかし、この無線というもの自体、当時は最新鋭兵器でした。
当時の各国海軍も導入直後であってその効果はまだまだはっきりしない情勢で、日本海海戦ではマルコーニ式の三六式無線電信機がちゃんと動作したことが勝因の一つとされているくらいです。
このシムス式無線誘導魚雷についても、マルコーニ式の送信機(だと思われる)に、コヒーラー受信機を使っていました。
日本海軍を世紀の大勝利に導いた、勝利の方程式再びってなもんです。
さぁ、風呂敷をもう一回広げてみましょう!(笑)


鷹は見放された!

1年にわたる実験の結果は、基本的には成功でした。
売りである電波によって送られる6種類の指示は完全に実現されたのです。
しかし問題もありました。
物の本には「欠点が沢山あつた」と書いてあるくらいですから、そりゃもうお祭り騒ぎだったんじゃないでしょうか(笑)

1つ、無線操縦指揮の宿命というか、操縦者が魚雷の位置を見失ったら最後でした。
操縦者が見失わないようにと魚雷を目立つようにしたら敵からも発見されやすくなってしまいますし、ジレンマではありました。

2つ、波にたたかれたりすると内蔵された継電器の指示装置がちょっと動いちゃったりして、誤動作を起こしやすかったそうです。
直進してたところ、いきなり舵を切り出して発射点に戻って来るということもあったそうで。

そして最後に。。。ノロかった(笑)
敵艦に追いつけない速度だったのです。
当時の常識的な魚雷で3000メートル走るとすれば恐らく15ノット前後でしょう。
「追いつけない速度」というのですから、恐らくもう少し低めな値だったと思います。

当然「改良してよ」という話になったのですが、シムス君の改良案が。。。

「圧搾空気の代わりに火薬を少しずつ爆発させて動力にしたらどーよ」

ダイナマイトキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!

かくして海軍期待の無線誘導魚雷は「実用価値なし」と判定され、めでたく却下になったのです。
どっとはらい。


もともとは某所の連載用に書いた駄文なんですが、意外に好評だったので加筆修正の上、正式コンテンツとして公開しました。
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