謎のこらむ・その2
低速だってだってだって、お気に入り♪
日本商船改装空母 |
「新型機の発着には低速に過ぎ、実戦では初期構想と異なる輸送及び護衛任務に投入されてほとんど効果を上げることなく戦没した」
(海人社「世界の艦船増刊・日本航空母艦史」84ページより)
「大型化した新型機を運用することができなかったため、大戦後半には戦力としての価値をほとんど失うことになる」
(コーエー「空母名鑑」122ページより)
このように何とも寒い評価を受けているのは、日本海軍の商船改装空母群です。
他の書籍についてもほとんど似たような口調であって、これらを総合するに、要するに日本の商船改装空母群は「役立たず〜っ!!」と断定されているに等しいかの状況です。
誰が言い出したか知りませんが、これが戦後の書籍の傾向のようです。
しかし、本当にそうでしょうか。
どこか誉めるところはないのでしょうか。
あまりにも自虐的に過ぎる結論ではないでしょうか。
と言うわけで、日本の商船改装空母群について「良かった探し」をしてみようというのが、本稿の趣旨です。
少し、おつきあい下さい。
大鷹(元・春日丸)
冲鷹(元・新田丸)
雲鷹(元・八幡丸)
神鷹(元・シャルンホルスト)
海鷹(元・あるぜんちな丸)
ここで「飛鷹、隼鷹はどうしたんだ!」とツッコミを入れている方もいらっしゃるはずですが、そこは大人、我慢して下さい。
空母決戦に参加してそれなりに踏ん張った彼女たちは、戦後も高い評価を受けていて、特に弁護してやる必要がないのですから。
更に詳しい方で「しまね丸(以下同文)」とツッコミを入れたい方。
MACシップもどきは対象外です(笑)
この5隻の商船改装空母群のどこが非難の対象となっているのでしょうか。
それは、最初に挙げた例えにあるように、「新型機を扱えない」という一点に絞ることが出来ます。
この点以外は些細な問題です。
艦上機を運用することが目的で建造される空母が、搭載機を自由に扱えないというのですから、これ以上の問題があるわけがありません。
では、なぜ新型機を扱えないのでしょうか。
これは、空母自身の低速と、カタパルトの未装備にあります。
日本海軍の艦上機は、太平洋戦争の緒戦期(例えば真珠湾)では、零戦21型、九九艦爆、九七艦攻の有名なトリオです。
これが大戦後半(マリアナ沖海戦辺り)になると、零戦52型、彗星艦爆、天山艦攻に変わります。
そしてそのどれもが、緒戦期の機体に比べ、重く、速いのです。
多くの場合、機体が重くなり、速くなると、飛行機の離発着性能は悪化します。
簡単に言ってしまえば、離発着に要する滑走路の距離が長くなるわけです。
空母の場合は、発着艦の条件が厳しくなるのです。
特に問題視されがちなのは発艦に必要な合成風速です。
そして、商船改装空母たちは、この引き上げられた合成風速の条件を満たすことが出来なかったと言われているわけです。
まず母艦自身の速力。
。。。難しいですね(笑)
速力を上げるためには、加賀などの例を見ればわかる通り、機関の換装や船体延長が必要なわけですから、少なく見積もっても1年以上もかかる大工事になります。
また機関の性能という限界もありますから、お金と時間と技術を要するという、これは素晴らしく困難な選択肢です。
従って、没。
次に向かい風。
。。。もっとどうしようもないでしょう(笑)
風の神様にでもお願いするほかありません。
公孫勝やナウシカ、ディードリットならともかく、凡人には何とか出来るような条件ではありません。
もちろん、没。
最後に残った条件、艦上機自身の速力。
これは、滑走距離を延ばせば解決できる問題です。
空母であれば、飛行甲板を延ばしてやれば良いのです。
そしてこれは、元々飛行甲板が短く不評だった大鷹型については実践されました。
しかしそれでも、彗星や天山の運用には事欠いたと言われています。
確かに軽荷状態の天山が「神鷹」から発進することはしましたが、条件が良すぎたので参考記録にしかならないでしょう。
雷装状態の天山の発艦に支障がなかったのかどうかとなると、甚だ疑問です。
これでは確かに新型機を満足に運用することは出来ません。
ですが実は、上記3つの他にもう1つ、発艦条件を満たす手段がありました。
それが、カタパルトです。
しかし日本では遂にカタパルトが実用化されることはなく、日本空母がカタパルトを装備することはありませんでした。
そして、米空母には、このカタパルトが装備されていたのです。
戦後の日本海軍関係者の間には、このカタパルトなる兵器にとんでもないトラウマがあるらしく、商船改装空母の話題になると「カタパルトがあれば、カタパルトがあれば」と呪文のように書き綴っています。
それを受けた形になるのでしょうか、例えば世界の艦船1999年10月号でも「カタパルトがあれば」という意見が見られます。
カタパルト症候群とでも言うべき何かが、そこにあるのではないでしょうか。
カタパルトの装備の有無が、日米改装空母の活躍度に差をつけたとする記事は、非常に多いです。
と言うか、ほとんどそうです。
ただ、改装空母と言うと、商船改装空母の他に他艦種改装空母も含まれます。
給油艦から改装された祥鳳型、水母から改装された千歳型、巡洋艦と同じ船体を使ったインデペンデンス型などがそうです。
これらは元来が軍艦で、それなりに高速を発揮できる連中ですので、商船改装空母のような徹底的な悲哀を味わっていませんから、今回はどうでもいいです。除外。
問題は、日本の5隻と、"made in U.S.A."の無数の商船改装空母群です。
米の商船改装空母群(ほとんど護衛空母というカテゴリーに類別されるので、護衛空母と呼びます)は、飛行甲板が狭いという問題はあるものの、カタパルトの装備により新型機の発艦には取り敢えず問題はありませんでした。
おかげで大戦後半においてもF4F(FM2)の運用が可能であり、あまつさえ雷装のアベンジャー雷撃機まで発艦させることが出来ました。
この運用能力をもって何をしたか、です。
日本海軍ファンにとって真っ先に思い出されるのが、サマール沖海戦のことでしょう。
ガンビアベイを始めとする米護衛空母群が、大和以下の栗田艦隊に散々追い回されたけれども、辛くも逃げ切ったという戦いです。
ものは書きようで、こう書けば日本側に有利に見えますが、実際のところは栗田艦隊は周囲の別の護衛空母部隊からの空襲に苦しめられ、逆に重巡戦隊を壊滅させられた戦いとも言えます。
ついでに言えば、護衛空母だけが踏ん張ったのではなくて、護衛駆逐艦の捨て身の行動もあったのですが。。。
まぁそれはともかく、正規空母の応援無しに戦艦戦隊を阻止できたというのは、確かに特筆すべき点です。
もしガンビアベイ以下の護衛空母が脆くも全滅し、周囲の護衛空母も阻止行動について「役立たず」であったならば、栗田艦隊の撃滅に米戦艦戦隊の手を煩わさなければならなかったことでしょう。
その結果如何によっては、レイテ湾のマッカーサーが海に浮かんでいた可能性もあるわけです。
それを考えると、サマール沖の米護衛空母群の働きは「活躍」と評するにふさわしい働きです。
また、戦史に詳しい方なら、米護衛空母がフィリピンや沖縄などで、有効な上陸作戦支援を行なっていたことを指摘するでしょう。
サマール沖の対艦行動が偶発的なものであるのに対し、この上陸作戦支援は明確な目的な意志をもってなされた行動です。
軍事評論家の間では、こちらの上陸作戦支援に従事したという事実の方が高く評価されていると思われます。
何しろ、本格空母を見慣れた目からすれば情けないこと極まりない航空艤装にも拘らず、敵航空威力圏内での積極的運用に耐えられたわけです。
これに比べたら、確かに日本の商船改装空母群は「活躍」できませんでした。
何より、敵艦隊に攻撃を仕掛けるなどということは、ただの一回もありませんでしたから。
それどころか、対地攻撃すら行なったことがありません。
米護衛空母の搭載機が、しばしば対地攻撃を敢行したことと比べて、日米間の商船改装空母運用の差が最も良く現れている点でしょう。
日本商船改装空母群は、こうした積極的な運用が行なわれることは遂になかったのです。
これは、日米の商船改装空母群の整備された意義を顧みるに、非常に見事な皮肉でした。
これに対し米商船改装空母は、大和阻止のために造られたわけでもなければ、上陸作戦支援のために造られたわけでもありません。
元はと言えば、Uボートの海上封鎖作戦に苦しむイギリスが対Uボート作戦の切り札として計画、アメリカに建造を依頼した護衛艦なのです。
CVEの米海軍識別記号の表すとおり彼女たちは「エスコート」であり、何を何から護衛するのかと問われれば、輸送船を敵潜から護るのが任務なのです。
護衛作戦は、数が勝負です。
だからこそ、数をそろえるために、商船に対する航空艤装は可能な限り簡素に済まし、高角砲も浮上Uボートと撃ち合える程度に押さえ、できあがった空母はおよそ空母と言うには相応しくない不格好さだったわけです。
言い換えれば、彼女たちは決して敵航空威力圏内での活動を想定した設計にはなっていないのです。
本来であれば大西洋を主な戦場にしているはずの護衛空母は、緒戦期の日本軍の大躍進とアメリカの偉大な工業力のおかげで、西太平洋にもまとまった数が振り向けられました。
護衛空母のテストベッドとして建造されたAVG−1(後にCVE−1)「ロングアイランド」を始めとして、多数の護衛空母が西太平洋へと押し寄せてきたのです。
彼女たちの本来の立場での「配当」(つまり、潜水艦からの襲撃を阻止)は、しかし日本潜水艦隊の採った戦術の影響から、大西洋ほど高い割合のものではありませんでした。
ところが戦争が終わってみると、前述の通り、上陸作戦支援という形で予想外の「ボーナス」を得ることが出来たのです。
もっともその代償として、栗田艦隊にガンビアベイを撃沈され、随所でカミカゼによる大損害を被ることになりましたが。
繰り返しになりますが、戦果だけを見れば、見込まれた「配当」の無かった日本の商船改装空母に対し、米護衛空母は偶然の産物を含めて「ボーナス」を獲得しています。
敗北した日本側が、日本商船改装空母が「役に立たない」存在であったと痛烈に思いこんでしまうのも、無理はないのかも知れません。
大戦中彼女たちはどんな任務に就いていたのでしょうか。
彼女たちが従事した任務は、船団護衛や航空機運搬でした。
ちなみに、大戦中に商船改装空母を保有した日米英の3国は全て、彼女たちをこの任務に就かせています。
その意味ではこの任務はかなり普遍的な任務だと言えるでしょう。
まずは、このうち日本において比較的知名度の高い任務、船団護衛から検証してみることにします。
大戦中、日本の5隻の商船改装空母のうち、先に撃沈された「冲鷹」を除く4隻が海上護衛総隊に編入され、船団護衛に従事しています。
ですが、「海鷹」を除く3隻までもが、船団護衛中に米潜の雷撃を受け、撃沈されています。
しかも、彼女たちが船団護衛に従事した期間は昭和19年4月「海鷹」〜昭和19年11月「海鷹」と、極めて短い期間だったのです。
「大鷹」の場合、九七艦攻12機を搭載して船団護衛に就いていました。
彼女は昭和19年5月の門司〜シンガポール往復船団から護衛任務に就き始め、この船団を見事護りきっています。
ですが、再び門司〜シンガポール往復船団の護衛に就いた「大鷹」は8月18日の夜、米潜の雷撃により撃沈されてしまいました。
「雲鷹」もまた、9月17日の夜に沈没。
「神鷹」は11月17日の夜に沈められています。
興味深いことに、3隻ともに雷撃を喫したのは夜間のことでした。
この原因は、夜間には搭載機が対潜哨戒任務に就けないこと、そして護衛艦艇の夜間哨戒能力の欠如に求めることが出来るでしょう。
レーダーや聴音機などの対潜哨戒用の電子機器の性能が悪いことが原因でした。
優秀なレーダーを装備する米潜の夜間襲撃能力に太刀打ちできる能力ではなかったのです。
それでは昼間はどうだったのでしょうか。
「大鷹」「雲鷹」「神鷹」、そして「海鷹」が護衛する船団で、昼間に米潜の雷撃を受け撃沈された輸送船は、1隻しかありません。
「神鷹」が護衛するヒ81船団の「あきつ丸」がそれです。
もちろん単なる偶然、あるいは必然の可能性もあります。
米潜による襲撃は、そのほとんどが黎明か薄暮と相場が決まっていましたから。
ですからこれらの事実をもって日本商船改装空母が船団護衛に「活躍」したと断定するのは、さすがに困難でしょう。
しかし、空母機による哨戒が昼間はそれなりに有効であった証拠である可能性も、大いにあり得るのです。
「役に立った」んだと、声を大にして叫びたいのが本音なのですが。。。
そうは言っても、多くの書籍がこの事実に触れもせずに済ましていることには、疑問を感じざるを得ません。
「護衛空母にカタパルトは必要条件じゃないのよ〜っ!!!」
ああ、すっきりした(笑)
なぜって?
なぜなら、カタパルトがなくても運用できるような機体を用意すれば良いからです。
例えば「雲鷹」には、磁探装備の九三中練が搭載されていました。
2003.02.11 川崎さんからのご指摘で、九三中練に磁探搭載機はいないそうです。
「赤とんぼ」と呼ばれる、複葉練習機です。
これならば商船改装空母のような低速でも、発着艦に支障があろうはずがありません。
そんな機体で潜水艦が撃沈できるのかと言いたい方もいらっしゃるでしょう。
しかし考えてみて下さい。
船団護衛は船団を無事に送り届けることが任務であって、潜水艦狩りは任務ではないのです。
その理由は、潜水艦の最も強力な武器が何かを考えていただければわかるでしょう。
潜水艦最強の武器は魚雷ではありません。
彼女たちの武器は「隠密性」に他なりません。
彼女たちの存在意義のほぼ100%はここにあると言っても過言ではないでしょう。
当時の潜水艦の水中行動能力はたかが知れたものであり、速度に優る水上艦船は潜水艦の位置さえ分かっていればこれを回避することは容易だからです。
船団を無事に送り届けるためには、潜水艦を撃沈するのではなく発見することが最も優先される課題なのです。
このような任務に就く対潜哨戒機には、元来それほど高性能な機体は必要ありません。
必要なのは、良好な低速性能と航続距離です。
その点、後続距離には劣るものの低速でしかも扱い易い複葉機は、空母にとっては非常に好都合な機体でした。
英海軍もソードフィッシュなどを使っていましたし、そのためか、数少ないイギリス自身が建造した護衛空母にはカタパルトが装備されていないものもあるのです。
確かにアヴェンジャーは優秀な機体です。
しかしこれを使わなくても、船団護衛の任務は十分に達成できるのです。
カタパルトがないから新型機が運用できない?
船団護衛には新型機もカタパルトも、そんなものは必要ないんです。
閑話休題。
次に航空機運搬業務について検証してみることにしましょう。
なるほど、長大な航続距離を誇る一式陸攻ならば、それも可能でしょう。
しかし零戦や九九艦爆がそれを真似しようとしてもなかなかできるものではありません。
それにこれだけの長距離飛行をしたらオーバーホールが必要になるでしょう。
人的な問題もあります。
このような遠距離移動ができる優秀なパイロットを、空中輸送という戦闘とは無縁の任務で疲労させ切ってしまいます。
ただでさえ前線では優秀なパイロットが不足している時に、出来ればこんなことで疲労はさせたくありません。
また、天候悪化や故障などによる事故の可能性もつきまとっています。
航空機による長距離移動というのは、現代と違って常に危険が伴っていたのです。
これだけ長距離の輸送になると、飛行機は空輸するよりも船で輸送した方が、時間以外のあらゆる面で有利だったのです。
とは言え、航空機はかさばる上にデリケートな、厄介極まりない特殊な貨物でした。
普通の輸送船は、このような貨物を輸送するようには造られていませんので、輸送出来ることは出来るのですが、効率の悪いことおびただしいものがありました。
そこで登場するのが、空母です。
航空機は、やはり空母で運ぶのが最も都合が良いのです。
この時期竣工していた「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」の3隻は、この運搬業務にほぼ専従していました。
ソロモン、ニューギニア方面の日本海軍航空隊を支えたのは、地道な航空機材輸送任務に従事した、商船改装空母たちだったのです。
彼女たちの他に「瑞鶴」「隼鷹」「龍鳳」なども運搬に協力していますが、「大鷹」たち3隻はそれこそ馬車馬のように航空機を運び続けたのです。
更に昭和18年になると、陸軍機の進出にも協力し、隼や九九双軽の輸送にも従事しています。
彼女たちは、多いときには一回に72機も詰め込み、トラックに陸揚げしていました。
航空機はトラックで整備を受け、そこからラバウルなどへ飛び立っていくのです。
一方で、ガ島に展開する米航空隊の影にも、護衛空母の大きな働きがありました。
ソロモン方面の航空撃滅戦を支えていたのは、日米両軍共に商船改装空母だったのです。
ソロモン、ニューギニア方面への輸送任務の他に、第一航空艦隊の中部太平洋方面やフィリピン進出の際にも、彼女たちは運搬艦として協力しています。
フィリピン決戦に当たっては、零戦と一緒に雷電も運んでいます。
大戦を通じて彼女たちが運んだ機体の数は、1000機は下らないのではないでしょうか。
この機数を目の前にしてなお、「役立たず」と評することが出来るでしょうか。
航空機運搬任務をして「雑用」と断言している書籍もありましたが、非常に残念でなりません。
これだけの膨大な数の機体を輸送し、戦線を維持せしめた輸送任務に対して「雑用」です。
どこを見ているのでしょうか。
第二次大戦がロジスティクスの戦いであったことを未だに認識できずにいるのでしょうか。
それに彼女たちがいなかったら、ラバウルを持たせるために、正規空母が訓練をほったらかして輸送任務に汲々としていた可能性すらあるのです。
そして本当に正規空母が必要な作戦時に、正規空母が使えないと言う本末転倒な事態を招いた可能性もあるのです。
「雑用」という文言こそ、商船改装空母の「役立たず」な面をクローズアップしようとし過ぎて、巨視的な戦略面からの分析を怠ってしまった証左ではないのでしょうか。
佐世保海軍墓地には、大小さまざまな海軍関連の慰霊碑が立ち並んでいます。
その中の一つに、軍艦「大鷹」の慰霊碑があります。
慰霊碑には「大鷹」の功績を称える碑文が彫られていましたが、本稿の最後にその中の一文を紹介しておきましょう。
「太平洋戦争の当初、飛行機の発着訓練に当り以後トラック、クエゼリン、ルオット、ラバウル、ウルシー、タロア、マニラ、スラバヤ等南方基地への零式艦上戦闘機輸送を主任務とし、十七年八月には戦艦大和駆逐艦曙、潮、漣と共に作戦主隊となり十八年五月にはシンガポールへの船団護衛に従事し、その行動は前後十七回に及び南西太平洋の全域にわたり数百機の零戦を輸送したるは特筆すべきことにして赫々たる戦果を収めたりと言うべし」
(軍艦大鷹慰霊碑より。原文ママ)