謎のこらむ・その1
ひっそりと計画され、ひっそりと消えていった
12.7cm三連装砲塔 |
その3冊の中でも興味深い記事が満載されているのが、19号「陽炎型駆逐艦」です。
どこが興味深いかというと、「島風型への道程」という記事。戦前船舶研究会(恐らく遠藤昭氏)の記事ですね。
私が目を引かれたのは、特にその最初の「異端児、初春型」という章です。
初春型の特異性について論じたものですが、この中にこんな一文が含まれています。
「当時は初春型用に一二・七センチ主砲の三連装砲塔採用のための研究が、盛んに砲熕部で実施されていた」
さりげないんですが、いやいや、私はびっくりしました。
子どもの頃から駆逐艦の写真とか見てて、「主に連装砲塔装備、小さい駆逐艦は単装混載」という固定観念が出来ていた私にとっては、なかなか衝撃的な一文でした。
アメリカやイギリスの駆逐艦のほとんどが単装砲でしたし、「おおっ、日本の駆逐艦って強そう!」とか思いませんでしたか?(笑)
いろいろ本を読んでいくうちに、大砲というものがいかに重くて、たくさん積むのがいかに難しいかということが分かってきましたが、子どもの頃はそんなことお構いなしですもんね。
特にヤマト(宇宙戦艦の方)のイメージが原風景にある私にとって、「三連装積め!!」というのが至上命題でした。
それでも、特型駆逐艦が連装砲塔を積んで登場したことが各国に驚きをもって迎えられたとか、アメリカが連装砲塔積むのにすごい苦労をしただとか、そんな話を知るに連れ、いつしか「連装砲でも無理が生じるんなら、三連装なんかもってのほかだなぁ」とかなんとか、勝手に合点していったんですね。
それが実際に検討されていたとは!
初めて目にした「三連装砲塔」、次に来るのは当然「なにもんじゃ、こいつは?!」という疑問ですよね。
学研の「島風型への道程」第2章には「三連装砲塔の意味」という題がついていて、中身を論じています。
三連装砲塔計画の存在を初春型の計画経緯についての推論につなげている章です。
ところが非常に残念なことに、三連装砲塔の機構などには触れずに済ましているんです。
じゃあ、この「12.7cm三連装砲塔」って、どんなのものなんでしょう?
そんなわけで前置きがえらく長くなりましたが、やっとのことで本題です。
そうしたら最近、東京の恵比寿にある防衛庁戦史室の図書館にひっそりと保存されていることがわかりました。
私も時々戦史室図書館には行くのですが、あんまり大砲に興味はないので大砲関係の資料など見向きもしなかったんです。
が、それ系の業の深い方々に「斉尾造兵中将の資料ってないの?」と訊いたら、あっさりと判明しまして。。。
げに恐るべきは、業の深さかな。
(補足:大砲関係では相当有名な資料らしいです。)
まぁそれはともかく、「斉尾資料」というのは結構分厚いノートでした。
でも驚いたことに、その中のたった1ページの走り書きなんです。三連装主砲に関する話。
題名が「50/3年式/12.7cm砲 三連装砲塔」となっていました。
「50/3年式/12.7cm砲」というのは、吹雪型〜島風型までの日本の艦隊型駆逐艦に広く装備されていた、50口径3年式12.7cm砲のことです。
メモの中身は、重量計算でした。
第一案と第二案とがありまして、おおよそ45t、47tという試算結果が記されています。
また、三連装砲塔の計画目的もメモされていまして、曰く。。。
「1400t駆逐艦ノ艦橋ヲ低クスル為ニ、二連単装ノ背負イ式装備方法ヲ止メテ艦橋前ニ三連一基ヲ装備セントシテ計画セシモノナリ」
「。。。これだけですか(呆然)」というのが正直な感想でしたねぇ。
もっと詳しい設計資料とか、あわよくば線図もあるのかとか、そういう過大な期待をしていたんですが、本当に過大だったようです(笑)
というわけで、元資料が滅殺されているのか、あるいは私たち一般人には入手できないところにあるのか、いずれにせよ「12.7cm三連装砲塔」の詳細は不明です。
ひょっとしたら戦前船舶研究会の方には別の資料があるのかも知れませんが。
砲塔種別 | 連装砲塔(A型砲塔) | 連装砲塔(B型砲塔) | 三連装砲塔(第一案) | 三連装砲塔(第二案) |
砲身 |
8.410t
(4.205t * 2) |
8.410t
(4.205t * 2) |
12.720t
(4.240t * 3) |
12.720t
(4.240t * 3) |
俯仰角部 | ? | ? | 7.900t | 7.900t |
旋回部 | ? | ? | 15.800t | 15.000t |
固定部 | ? | ? | 2.100t | 2.100t |
砲楯 | ? | ? | 8.500t | 8.150t |
合計重量 | 25.400t | 約31t〜32t | 47.020t | 45.870t |
参考資料 |
ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 |
ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 |
斉尾造兵中将資料 | 斉尾造兵中将資料 |
ということなんですが、まず資料について。
はっきり言って、参考資料によって数字が違います(笑)
建前としては全部同じはずの砲身重量からして違いますね。
また、部分の分け方は斉尾資料に基づいています。
こんな分け方で重量を算出してる資料は他にはないと思うので、単純比較は今後も無理なのではないでしょうか。
大砲に詳しかったら、残された資料から計算するという手もあるでしょうけどね。
しかも、合計重量が必ず同じものを指し示しているとは私は保証できません(笑)
一体全体、どこが「比較」なんでしょうね(^^;
まぁ、こういう数字があるんだという参考程度に留めておいて下さい。
A型砲塔のA型砲架、これは2門の砲身を同一の砲鞍に載せている同時俯仰角方式の砲架で、軽いです。
B型砲塔のB型砲架、これは2門の砲身を別々の砲鞍に載せている独立俯仰角方式の砲架で、A型砲架に比べて重いです。
歴史を簡単に振り返ってみると、最初の頃に建造された特型駆逐艦はA型砲塔を装備しています。
特2型以降はB型砲塔に変更されています。
しかもB型砲架は、75度もの高仰角射撃が可能なように設計されていました。
(A型砲架は最大仰角40度)
これは、日本海軍の主砲を全て対空砲化しようという昭和3年に提唱された計画に基づいた設計だそうです。
以上が、A型、B型の各連装砲塔の機構の特徴です。
ここで気を付けて頂きたいのは、「特徴として説明されている項目」です。
1.砲鞍が同一か別々か
2.仰角はどのくらいか
他にも揚弾が機力か人力かとか、信管調定装置があるか否かとか、いろんな差異が取り上げられると思いますが、取り敢えずはこの2点でいいんじゃないでしょうか。
さてさて、問題の三連装砲塔。
まずは砲鞍の型式から。
砲塔重量の軽減には、1つの砲鞍に複数の砲身を載せた方が有利です。
しかも後の89式12.7cm連装高角砲は1つの砲鞍に2本の砲身を積んでいる同時俯仰角方式ですので、対空砲として機能するためにはB型砲架の独立俯仰角方式が必要条件ではないと言えます。
もっとも、3年式12.7cm砲の尾栓が螺旋式であることに気を付けないといけません。
螺旋式だと、弾の装填をするときには一定の仰角に直さないといけないという不便な点があるらしいです。
ですから高仰角での発射速度は必然的に遅くなってしまいます。
対空砲は、無駄弾を数多くばらまいていくらの世界ですから、当然発射速度が問われます。
この要求と実際の矛盾をいかに目的に向けて摺り合わせるかという点が問題になります。
というわけで、交互発射が登場するわけですね。
右砲と左砲が撃って弾を装填している間に、中砲が発砲するという撃ち方です。
あるいは1門ずつ順繰りに撃っていく方法です。
こうやって3門が交互に射撃することによって、目標への投弾を絶やさないようにするわけです。
となると、独立俯仰角方式を選択せざるを得ないでしょう。
。。。この辺の説明、合ってるかどうか怪しいですけど(^^;
交互発射については、学研の「島風型への道程」の「三連装砲塔の意味」という章に書かれていますが、以上、少し補足までに。
次に仰角はどのくらいでしょう。
この三連装砲塔、時期はいつかと言うと、「斉尾資料」には昭和7年〜9年という記述があります。
あるいは、初春型もしくは有明型の設計に際して計算されたのかも知れません。
用途はこの時期ですから恐らく対水上・対空兼用砲でしょう。
B型砲架と同様、75度程度の高仰角射撃が可能なように設計されていたと思われます。
もちろん、D型砲塔のような信管調定機能はついてないでしょうね。
あと外見上問題になるのが、どこに照準装置を設けるかという点です。
B型連装砲塔からD型連装砲塔に至るまで、照準器は全て砲架の左側に配置されています。
A型だけは違っていて、砲の両側に照準器用の覗き窓が開いています。
砲室の中身がわかるような図面を見たことがないので、照準器が砲の両側に配置されているのかどうかはわかりませんが、これだけ異質なのは確かです。
ところで、A型砲塔とB型砲塔を見比べてみて、A型砲塔の砲身の間隔が狭いことにお気づきでしょうか。
砲身を同じ砲鞍に載せると、間隔が狭くなるんですね。
アメリカの条約型巡洋艦の8インチ三連装砲塔、左右が寸詰まりでカッコ悪く見えるのは、あれも砲鞍一つだからです。
横道に逸れましたが、もし12.7cm三連装砲塔が独立俯仰角方式だったとすると、必然的に横幅が広くなってしまいます。
さて、どうやって照準器を配置するんでしょうね。
これは見物です。
連装砲塔でさえ、駆逐艦の細い船体ぎりぎりいっぱいを使っています。
これが三連装砲塔になったらどうなることやら。
大和の主砲塔みたいなでっかい測距儀背負ってたら絵的にはカッコいいんですが、きっと妙高の一番砲塔の測距儀みたいに使い物にならなくて封印されちゃうんだろうなぁ(笑)
個人的にはB型砲塔を踏襲して、照準器を無理矢理にでも砲の左側に配置するような気がしますが、さて、皆さんはどうお考えでしょうか。
それにしても、もし開発がうまく行ってたら、日本駆逐艦の系譜はどうなっていたんでしょう。
前後に三連装砲塔を1基ずつ装備した、なかなか強力そうな、それでいて砲塔と船体とが不釣り合いな艦影が特徴、ということになっていたんでしょうか。
あー、まとまらない(笑)
検討理由からも分かるとおり、まず三連装砲塔ありきではなく、トップヘビーを矯正する目的で検討されています。
三連装砲塔案の存在は、原史料から読み取ることの出来る範囲においては、これ以上の意味は見出しかねます。
また対空射撃の方法として交互射撃が検討されたという根拠を発見できていません。
連装・単装混載の時点では、両砲塔の射撃を統一指揮下に置かないとこの射撃は実現が困難です。
初春型の計画時点で既に分火を前提としていたとしていますが、となると秋月型のように両砲塔の統一指揮を司る指揮装置が群当たり1基必要になりますが、前部砲塔群はともかくも後部砲塔群にはそんなものはありません。
第一、高角射撃装置を搭載する予定自体聞いたことがありませんから、対空射撃時は砲側照準かも知れません。
3門を同一砲塔内に納めてしまえば砲側照準で何とかなると論を運んだのかも知れませんが、斉尾資料にはそんな文言は一句たりともありません。
よって、私個人としてはこの説には全く否定的です。
初春型そのものの計画経緯に対する私のスタンスは、駆逐艦辞典の方をご覧下さい。
三連装砲塔案は確かに存在しますが、繰り返しますが、この砲塔は対空射撃云々が目的ではなく、単にトップヘビーの矯正の為に検討されたに過ぎません。